真朱の姫神 第三部関連地 (番外/補足)
ヤマトの風景
伝・仲哀天皇陵
大阪府河内長野赤峰(赤峰市民広場)
日本書紀によると、「神功皇后摂政二年冬11月、天皇を河内国長野陵に葬った」とあり、現在ではその比定地は藤井寺市岡の前方後円墳とされているが、江戸時代の歴史学者松下見林はその著書「前王廟陵記」で仲哀陵の所在地を河内長野上原村とした。
「河内志」「河内名所図会」ではこれを否定して高向王説をとっているが、古代陵墓の被葬者を特定するのは極めて困難なことではある。
●左上の写真は、高台の赤峰市民広場を東側の上原町側から撮影したもので、小山の山頂に送電線の鉄柱が見えるが、ここが古くから古墳と言い伝えられてきた。
●左の写真は、国道170号の野作南交差点南の旧天野街道沿いにある「仲哀天皇御廟」と刻まれた石柱。これは江戸時代・元禄年間に幕府により保全された時のものという。
(河内長野市史 第一巻参照)
烏帽子形古墳
大阪府河内長野市喜多町(烏帽子形山)
烏帽子形古墳は烏帽子形公園の中にあり、烏帽子形山と呼ばれている。
ここは古くより、古墳と伝えられてきているが埋葬者は不詳。山は標高182mで北側は石川本流、東側に支流の天見川が流れ、天然の要害となっている地形で、南北朝時代に楠木正成によって築城されていたと伝えられている。
応仁の乱以後は河内守護の畠山氏の持城であったらしく、室町時代から江戸時代の初めまでは使用され、最後の城主はキリシタン大名、甲斐庄正治の子甲斐庄正房という。
烏帽子形公園内の史跡には、この烏帽子形城址、烏帽子形古墳、烏帽子形八幡神社遺跡がある。
●1988年の城址の調査で、主城郭の縁に沿って、室町時代末期頃の二棟の細長い礎石建造物が見つかっており、城の施設の一部と考えられている。
(烏帽子形城址説明立看板より)
●左・中の写真は、山頂の本丸跡の石碑
美葦芽彦遅神(ウマシアシカビヒコジ)
天之常立之命(アメノトコタチ)と読める。
●左・下の写真は、烏帽子形城復元予想図