もうひとつの空海伝 まえがき

丸谷いはほ
十年も前のことになります。
西吉野の光明寺住職村岡空氏、郷土史家の辻本武彦氏のお二人に「空海の道」についてお話しを伺ったことがありました。

村岡氏から―――京の大学を抜け出した空海が真っ先に向かった先は比蘇寺だったと思う。そこは渡来僧が多く居て治外法権的な寺であった。大学を無断で飛び出した行為はひとつの犯罪行為とも言えたので、そこへ逃げ込むのは空海にとって都合が良かったのではないか。比蘇寺は求聞持法の道場にもなっていたので、空海はそこで求聞持法の手ほどきを受けたのだろう…と。
辻本氏はこの意見に同意され、さらに空海が修行に向かった高野山への道筋について―――西吉野から高野山へ行く道は、今の奥駆け逆峯修行に一部を使う道筋とは違う道が古代にあった。それは「聖なる道」で、現在の吉野山を通らず、下市から南に向い、平原の熊野神社を経て銀峯山へ上り、波宝神社の社頭を通る道である。昔、高野山への奥駆けの折には、先ず波宝神社に参詣するという習わしであった。このような慣習があったということは、「空海が初めて高野山へ向かった時と同様の道を辿るということではないか」―などというようなことを両氏が話してくださったのです。

この時、吉野での修業時代の「若き空海」をいつかは書いてみようと思ったのでした。
それから十年を経た昨年、空海ゆかりの地を訪ね歩き、空海について書かれた資料(本・史料)等、ひと通り読み直しました。
でも、宗教者の枠を超えた偉大な人物、空海はとても描けません。
それで、自分が進むべき学問の道に悩み、修行に明け暮れ、恋にも悩む、等身大の青年修行僧空海を、物語として書いてみようと思います。
 
 さて、本編に進むにあたり、ここで空海の周辺について述べておきたいと思います。
 
●空海の生誕地
空海は讃岐国多度郡(香川県善通寺市)で生れたとされていますが、高野山大学・武内孝善教授は、空海畿内誕生説を唱えています。根拠が確実で説得力のある説だと同感できるので、ここでは同様に河内国渋川郡跡部郷とします。
 
●空海の幼名
弟子や信徒に遺したとされる『御遺告』や、高弟の真済が著わしたとされる『空海僧都伝』にも、空海の幼名は真魚であったとは記されていませんが、この物語ではその他の伝記などと同様の真魚とすることにしました。
さて、この「真魚」ですが、都の大学を出奔して24歳で『聾瞽指帰』を著わすまでと、それから31歳で入唐するまでの消息がよく分かっていません。
 
●大学出奔と修行
真魚(空海の幼名)が大学に入った年齢ですが、当時、国学も大学も入学可能年齢は13〜16歳という規定があったはずです。
それで真魚は13歳で国学に入り、16歳の制限ぎりぎりで大学に転学したのではないかと思うのです。国学の授業がもの足らなかったのでしょう。
ものの本では、空海は18歳で特別に許可され大学入ったなどと、されているのもありますが、律令制のこの時代、いくら伊予親王の侍講阿刀大足が働きかけようと、佐伯今毛人が嘆願しようと、それは無理というものでしょう。
実際勉学の方も、4、5歳の幼年期から始めているはずだと私はみています。
 さて、大学を出奔した真魚は、24歳で聾瞽指帰を著わし31歳で入唐しています。
この大学を中退してからの4年位、そして24歳以降を合せた10年ほどが不明です。
この間に山岳修行をしていたのだろうと言われていますが、実際どのような生活をしていたのでしょう。
この不詳の10年間が最も興味深いところです。
そこで、この不詳の10年間(若き空海の謎)を物語にしようとしたのが“もう一つの空海物語”「南山の沙門」です。
 
●その他空海の周辺については、以下をクリックしてご覧ください。
            ここをクリック→ 「空海伝の覚書」

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