吉野に坐す神 |
雅やかな極彩色塗装が施された 本 殿 |
大阪からはサンマルク(国道309号線)で大淀町に行き、吉野川に架かる千石橋を渡った南詰めを左折する。吉野川の南側を通る県道39号線である。
すぐ左に料理旅館「千石荘」があり、続いて阿知賀郵便局があって、次の角に有名な岡峰古墳の案内表示がある。そのまま東に行き、右側に国栖神社の杜を見て更に先の少し広くなった所を右折。阿知賀小学校の南側の小山の上に、この勝賀宮「阿知賀・八幡神社」は鎮座していた。ところが実際は、近くまで行っても案内看板などは全く無く、探し回り、地元の人に聞いてやっと境内に入ることができた。あとで注意して見ると、それらしき小さな石の道標があったが文字は風化して消えてしまっていたのである。
阿知賀の総氏神だと謂われるこの神社には、歴史を語るような風格があった。それでいて清々しい雰囲気なのである。下市に鎮座する八幡社はどの社も素晴らしいが、特にこの勝賀宮は印象に残った。何もかもが美しいのである。例えば、手水舎の水盤一つをとって見ても美術品のようなできばえである。殆ど人の手を加えていないような美しい自然石に、「酒盃」とのみ刻されている。文字は隷書で見事な調和を見せて配されている。その水盤には、銅の筒先から清冽な水が、たえず注がれていた。
(厳密に言えば「盃」の字は、皿の上に水と刻んであった) (鳥居に架かる扁額には「勝賀宮」とある)
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祭神は応神天皇である。 天武天皇戦に勝ち給うた時、当地に八幡大神を勧請せられ賀宴を張られた。 この時勝賀宮と称し奉り村名も可知賀とせられた。後世之が転訛して阿智賀となったと伝えられている。 当社は白鳳八年九月朔日に創建されたと言われている。また一説に檜垣本の御分霊ともいうが真偽については今これを明らかににしがたい。 往古は宏麗な御社であり神領多く祠官数多あり、綸旨、御教書、神宝等兵火ににかかり焼失したと伝えられている。…以下略。 ――『大和下市史』より |
境内摂社 | ||
社殿正面 割拝殿の向こうに見えるのは内拝殿 | 手水舎、自然石の水盤 |
宮山保安林と看板が立つ檜林 | ||
内拝殿に掛けられた絵 馬(大男に斬りかかる少年) | 帰路、北方に見える葛木山系 |
よしのにましますかみ 吉野に坐す神 平成23年11月25日掲出