おわりに

 古代の吉野について書き進めてきた。そして最後に「吉野宮」について書いた。そのなかで吉野宮は、壬申の乱前、即位前の大海人皇子が立てこもり挙兵した吉野宮と、乱後持統天皇が繁く通った吉野離宮は、その性格も所在地も違うことを述べた。
 つまり、以前の吉野宮はいわゆる神社だったのではないかとした。この宮は、いざとなれば堅固な城塞に代わる山頂の神社ではなかったか。それは白銀岳山頂に鎮座している波宝神社であった可能性がある。
 波宝神社は『吉野郡史料』では、「神功皇后南紀日高ヨリ小竹ニ遷リココ白銀神蔵に御座アリ」の記事から小竹宮
(注十八)といわれてきたと伝える。『書紀』に「小竹。此云之努。」と訓注があるので、小竹は之努(シヌ) 「ヨ・シヌ」のシヌなのである。つまり、小竹宮(シヌノミヤ)とは、與(ヨ)・之努宮(シヌノミヤ)(ヨは強調接頭辞)であるとすると、あるいはこの神社が壬申の乱以前の吉野宮のことではないかと思う。

 近年、宮滝に吉野宮があったとするのが通説になりつつあるようだが、それは違うと思う。吉野宮というからには、吉野郡の古代の四郷、すなわち吉野、賀美、那賀、資母 のうちの吉野本郷に所在するものでなければならないからである。さまざまな説があると思うが、古代に吉野といわれた地域は、吉野川の南岸で丹生川とに囲まれた、吉野山周辺、旧黒滝村、丹生村、御吉野村、白銀村、賀名生村辺りだとするのが妥当であろう。
 ちなみに宮滝遺跡のある地域は、那賀郷と呼ばれたうちの、中荘村に該当し、ここに吉野宮があったとするのは無理があると考えられる。

 では、「吉野離宮」は何処に所在したのだろうか。
 筆者は記紀や万葉集の記述、古代吉野の伝承などから考察すると、それは吉野川の南岸でいわゆる河内と呼ばれる地形の、現在の下市町新住辺りだと結論付けるものである。

●この小論は、佛教大学に提出した卒業論文を再編集したものです。
 (卒論指導は中井真孝教授に個別指導を賜りました))

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(注十八)小竹宮の比定地は、以下の五ヶ所にあり。
●志野神社:和歌山県紀の川市粉河町志野
●小竹八幡神社:和歌山県御坊市薗642
●舊府神社:大阪府和泉市信太
●波宝神社:奈良県五條市西吉野町銀峯山
●小竹神社:大阪府和泉市府中町6 泉井上神社境内社
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●問題点
 神功皇后は歴史上の実在人物かというと、はなはだ疑問はある。しかし、何人(なにびと)かの伝承史実の投影ではないだろうか。
 神功皇后の謎については、また稿を改めて書いてみようと思う。
以 上   
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