維新のさきがけ
天誅組の乱
文久三年(1863)8月13日、大和行幸の詔が出されると、公家(明治天皇の叔父)の中山忠光を擁した尊皇攘夷派の土佐藩士吉村寅太郎らが、天皇親政の先鋒として各地の尊皇の志士に呼びかけ幕府を倒そうと大阪に集結して天誅組を旗揚げ。8月17日金剛・水越峠を越えて大和に入り五條代官所を襲撃。代官鈴木源内らを討ち、桜井寺を本陣として五條新政を宣言する。
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しかし翌18日、京都での政変により情勢が一変して大和行幸は中止、挙兵の大義名分が喪失して一転して賊軍となり幕府から追討されることとなる。 8月26日には高取城攻撃に失敗して敗走。 9月1日、朝廷からも追討の命が下され朝敵ともなった天誅組は、天の辻本陣から各地を転戦。 9月7日、大日川の激戦の後、本陣を白銀岳に移す。大日川から白銀岳の平沼田、黄金岳の栃原・樺の木峠、広橋峠、下市町千石橋と激戦が続く。9月8日から10日幕府側の総攻撃が開始される。幕府軍の軍勢は13,000人以上であったとされている。しかし戦力の違いは如何ともし難く各地の戦闘はいずれも劣勢で、この時また朝廷から忠光を逆賊とする令旨が出され、十津川勢の離反もあって脱退者もあり天誅組の士気も低下、19日忠光は遂に解散を宣するに至る。 |
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この後、吉村寅太郎は東吉野の決戦で鷲塚口で討たれ、残党は各地に敗走する。中山忠光はからくも脱出に成功し長州藩に匿われるも、後に暗殺される。 また、天誅組に途中参加し、参謀として白銀岳の陣で大活躍したた丹生川上神社の神官橋本若狭も、幕府軍の追手から逃れたが、その後大阪に潜伏中に幕府の役人に囚われ処刑された。 この吉村寅太郎と橋本若狭の辞世の句が残されている。 |
↓黄金岳 ↓白銀岳 | ||
▲五條・犬飼から白銀岳、黄金岳(栃原岳)を望む。手前は吉野川河川敷 |
天誅組というのは、後の人々によってつけられた呼び名である。 彼らの持つ幟には「皇軍御先鋒」と書かれていたという。つまり大和行幸の先鋒ならむとしたのだ。 この挙兵はいわゆる「八月の政変」のため大義名分が無くなり、一転して朝敵の汚名を着せられため 失敗に終わったが、そもそもこの天皇の大和行幸は天皇親政の旗揚げではなかったか。 彼ら尊皇の志士達は、江戸幕府を倒して新しい日本をつくる魁になろうとしたのである。 |
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天忠組、大和義挙ともいわれる。この挙兵のわずかに五年後、明治維新が成立したことを思えば、 たしかに維新の先駆けになったことは確かかも知れない。 しかし、一方で「愚挙」だとの評価もある。 |
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考えてみれば、五條代官鈴木源内は災難であった。部下数人が斬殺され、本人は梟首されたのである。 鈴木源内は60代の温厚な人柄で領民にも慕われていたという。またこの地域の領民もまた災難であった。 十津川郷士は半ば脅迫的に徴兵され、西吉野地区の農民は労役や兵役、糧食の供出等々、また多数の民家が戦術上の防御のために火にかけられた。 下市町は今も語り継がれる大火災となり、多数の民家が焼失した。 |
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思えば天誅組、幕府軍とも多数の死傷者を出し、領民は大災難を被ったのである。 いつの時代でも、被害を受けるのは常に民衆であった。 弱者の立場を考えると「義挙」などと言ってもてはやしてばかりはいられないのではないだろうか。 『大和日記』、『南山踏雲録』、『天誅組の研究』など、様々な天誅組に関する本がある。改めて幕末を俯瞰してみたい。 |
五條代官所
▲民俗資料館 五條代官所正門だった長屋門が改修され 民俗資料館として公開されている。 入場無料 |
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▲史跡公園 | ||
史跡公園概略
文久三年(1863)八月、明治維新の魁といわれる天誅組の義挙により、
現五條市役所の位置にあった五條代官所が焼き討ちにあい、元治元年(1864)十月、幕府がここに代官所をあらたに建てなおしました。 明治元年(1868)五月、代官所は奈良県に引き継がれ、明治三年(1870)二月、五條県発足のおり五條県庁となり、
その後、警察大屯所や中学校として利用され、明治十年(1877)には五條区裁判所となりました。 この広場は史跡公園として平成十四年(2002)に整備され、
また長屋門は、建てなおされた五條代官所の正門の姿を残す歴史的記念物で、 天誅組の義挙140年(2003)の記念にあたり修復改修しました。 -史跡公園案内板より- |
吉野山風に乱るるもみぢ葉は 我打つ太刀の血煙と見よ 吉村寅太郎 |
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川上乃神の心我こころにて 濁れる世には澄むとぞ思う 綱幸(若狭) |
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民俗資料館資料より |