浮田の杜 | ||
荒木神社 | : | 奈良県五條市今井町、「延喜式」神名帳宇智郡荒木神社に比定 |
祭神 | : | 祭神不詳 |
祭神については諸説がるようである。 平凡社「寺院神社大事典」によれば、渡会延経「神名帳考証」では建荒木命または大荒木命とされ、 「神社覈録」は荒城朝臣を祭神とみているという。なるほど『新撰姓氏録』河内国神別に建荒木命、右京神別に 大荒木命が記載されている。佐伯有清著『新撰姓氏録の研究』考證篇第三、第四には、建荒木命、大荒木命に同じ。 荒城朝臣については、荒城の氏名は荒木とも書き大和国宇智郡荒木神社の鎮座地の地名に基づくものか、とある。 また、荒城朝臣の旧姓は臣といい、この一族は山城や摂津、河内、遠江、越前、出羽にもその名がみえるが、 この荒木神社の所在地周辺に居住していたことを示す史料はない。そこで次は筆者の想像的見解だが、 この神社の本来の祭神は古い国津神で、それも荒振る土人(くにびと)の先祖神ではなかったか。 あるいは「アラハバキ神」だったのかも知れぬとも考えられる。 さて、以下は余談だが、 『新撰姓氏録』右京神別上 玉祖宿彌の条に、 高御牟須比乃命十三世孫大荒木命之後也。とある。 大阪の玉造神社の社家は代々大荒木命、つまり建荒木命の後裔であったようだ。 |
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史跡 浮田杜伝説地 昭和32年6月13日指定 浮田社は万葉集に詠まれた古代の社叢であるが、このあたり一帯の荒木神社の杜が相当すると考えられている。 かくしてや なおや守らむ大荒木の 浮田の杜の標ならなくに (作者未詳 巻11-2839) 歌の内容は、標縄に寄せて女性の思いをのべた恋歌であるが、その背景には、この杜が古来より神威厳しく、みだりに人の立入りを禁じていたことによるとみられる。 荒木神社は、今井集落の北筋に荒木山を背にし、旧伊勢街道に面して鎮座している。祭神は不明であるが、「延喜式」神名帳記載の式内社に比定されている。 植物相は、特にシイ、クロバイを主とした常緑広葉樹林、ヒノキを主とした針葉樹林によって構成され、暖帯要素を混えた樹叢となっている。特にクロバイの巨樹の群生は、五條市内では唯一のもので、植物学上貴重な存在である。 平成4年3月 (奈良県教育委員会 案内看板まま) |
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▲浮田の杜・荒木神社境内入口 | ||||
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浮田の杜傳承地 奈良朝の頃「浮田の杜」といふのは名勝として歌にも詠まれたが、萬葉集第十一に、 如是為哉 猶八戌牛鳴 大荒木之 浮田之杜之 標爾不有爾 (二八三九) とあるのがそれである。平安朝に書かれた栄山寺文書には、宇智郡に「荒木坂」の名が見えるが、これはこの神社の西北にある荒坂の事である考へられ、又この山も古来荒木山と呼ばれたことは今でもこの神社の裏山付近に「荒木山」の小字が残つているのでも知られる。従って延喜式神名帳の大和国宇智郡下の荒木神社とあるのはこの神社であることは確かである。萬葉集では「大荒木の浮田の杜」と詠まれているので、僧契沖は勝地吐懷編や萬葉代匠記で、それは大和宇智郡の荒木神社の杜であると主張した。それ以来大和志や神名帳考証や萬葉集古義等皆この説を採つている。 萬葉集でも詠んでいる様に古くこの社は神威の厳しかつた為みだりに立入る事が自然に禁ぜられていたようである。その事を「標」といつたのである、そういふ特別な神域であつた為、吉野川、紀の川、またその沿道を往来する旅人には目に著しく写つて崇敬の念と共に色々な点で目標となる景勝地であつたようだ。 昭和三二年六月一三日史跡浮田の杜 (境内入口説明看板まま) |
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▲拝殿と奥に本殿、背後は荒木山 | ||||
大和五條・新町通 | ||
大和国宇智郡、現在の奈良県五條市は 古くから伊勢街道・西熊野街道・紀州街道・河内街道などの要衝として、 宿場町として栄えていたようである。江戸時代、徳川幕府はこの五條に代官所を置き、 天領としての宇智・宇陀・吉野の三郡を支配していました。 この五條市に、通称「新町通」という古い町並みがあり、昭和50年の調査では、 江戸時代の建物が77棟、明治時代の建物は19棟確認されていたという。 |
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▲御座敷喫茶(山田旅館1階) | ▲山田旅館 (前の通りが「新町通」) | ▲筏宿時代の旧看板がみえる | ||
旅館前のこの新町通りで毎年5月第4日曜日に「かげろう座」自由市場が開催され出店や大道芸で賑わう。 平成19年4月17〜18日に、ここで日韓共作映画「花影」の撮影がおこなわれた。 |