本 殿 |
八尾の地名の由来は、若江郡曙川村八尾木の地名からともいう。 この辺り一帯は、古代より物部の一族弓削部の人々が居住した地域であった。このすぐ近くには矢作部の人々が住んでいた地域もあり、矢作神社が鎮座しているが、やはり、いずれも物部系の、武器の生産をその生業とする一族である。 弓削氏の氏神は弓削神社で、氏寺は弓削寺(竜華寺とも)であった。 由義神社も由緒からみると弓削氏の氏神的な性格をもつものといえる。当社の鎮座地が「由義宮」の舊址というからである。 『続日本紀』天平神護元年(765)10月2日の条に、天皇が道鏡に太政大臣禅師の位を授け、続いて文武百官に詔して太政大臣を礼拝させたとする記事がある。 また、神護景雲3年10月17日には由義宮に行幸、同21日竜華寺(弓削寺に佳字をあてた?)に真綿を施入し、同30日天皇は詔して由義宮を西京とし、河内国を河内職とした記事が続く。 続日本紀の記事にある太政大臣禅師・道鏡はこの地の生まれである。もちろん弓削氏の出自で、師の義渕は法相宗の高僧で天智天皇の信任が特に厚かった人物でもある。 悪僧として一般的に世に知られている道鏡ではあるが、その伝によれば「略梵文ニ渉リ禅行ヲ以ッテ聞ユ」とある。“サンスクリットに通用して禅僧として有名”というのである。いささかインテリであったと言えよう。称徳天皇の寵愛をほしいままにし、朝政を専横したと言うが、有能な人物であったからこそとも言える。 由義宮の跡地にある当神社は、続日本紀の記事にある通り、弓削一族にゆかりの神社である。 ちなみに、「由義」も「竜華」も、そして地名の「八尾木」すら、「弓削」に発した表記かも知れないと思われる。 参考史料:『続日本紀』宇治谷孟現代語訳、『八尾市史』など |
石碑(由義宮舊址) | 秋祭りは、例年10月20日に近い土日、となっている |
かみがみのましますもり 続・神々の坐す杜 11.平成19年10月29日掲出