湖国近江の名勝
近江八景「三井の晩鐘」で有名な三井寺は、
正式名称を長等山園城寺といい、天台門宗の総本山である。
三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統の三帝誕生の際、
御産湯に用いられた「閼伽井屋」と呼ぶ霊泉があり、“御井の寺”と呼ばれたことに由来するという。
この寺は新羅と縁の深い寺院といわれ、中興の祖・円珍が唐に留学して、のちに日本へ帰国する際、
船中に新羅明神が現われたといい、この寺の守護神となっている。円珍が請来した経典法具を
三井寺に保管することになったのも新羅明神の夢告によるとされる。
なお本尊は金堂の秘仏、弥勒菩薩である。
三井寺展望台より、眼下に琵琶湖を望む |
十八明神社 | お地蔵さま | 三重塔 | 毘沙門堂 | |||
山内の土地伽藍を守護する神々を 祀り、別名を「ねずみの宮」という。 (社前の説明板より) |
このかわいいお地蔵様は、 境内のあちらこちらで、 ほほえんでくれる。 |
吉野の比蘇寺より豊臣秀吉 が伏見に移築し、徳川家康 が三井寺に再移築した。 |
お堂とされているが派手な彩色塗装 が施され、建物は神社様式である。 新羅善神堂も「堂」とされている。 |
南面するこの神前で源三郎義光は元服した |
新羅善神堂は、園城寺の鎮守ともいうべき神社だが神社とはしていない。鎮座地は園城寺境内の北の外れで、元々は同じ境内の地続きであったと思われる。場所は京阪石山坂本線沿いの道路の西側、大津市役所、大津消防署の次の道を左手に入った弘文天皇陵の奥の山手にある。このすぐ上方の山中には新羅三郎の墓地もあるところだ。 電車では三井寺駅よりも別所駅のほうが近い。園城寺(三井寺)境内の北側、歴史博物館前からも行けるが、「遊歩道」と案内板があるものの、蜘蛛の巣が張った細く険しい山道で全く人通りも無い。新羅三郎の墓所への道も同様である。 新羅善神堂は、広い境内の立派な神社だが休日の真昼なのに、ここにも自分達の他、一人の参拝客もいなかった。 |
ほとんど寺へは参詣をしないので、琵琶湖の西岸辺りを車で通ることがあっても、この三井寺に参拝したことはなかった。 でも、このたびは古代の朝鮮三国について知りたいことがあったので、新羅にゆかりの三井寺に行ってみた。 三井寺は、平家打倒の拠点となるなど源氏との関わりが深い。叡山との宗門対立や戦火で炎上したこともあるが、その都度源氏一門が再建しているという。またこの寺は特に新羅と関わりが深いように感じられた。 |
●11月1日から大阪市立美術館で「国宝 三井寺展」が開催されている。 今回、三井寺や新羅善神堂に参拝して、改めて古代日本と新羅との繋がりを感じ、展覧会を観に行った。特に見たかったのは「新羅明神坐像」である。これは秘仏中の秘仏ともいうべきもので、一切非公開だったという。その像が間近で拝観できるというのである。早速行ってみた。 恐ろしい異相ともいえる面貌であった。一度見たら忘れられない、いつまでも脳裏に焼きついて離れないような顔をしていた。ガラスケース越しに間近で、正面から横から後から詳細に眺めてみた。 ためつすがめつ見続けていると、最初の印象ほどの怖さはなくなってくる。 「ふーむ、これはおそらく西域の顔だろう。東南アジアの人が初めて西域の人を見て、印象を像に写すと、きっとこのような像になるだろう」。「新羅明神は胡人ではないか?」 じっと見続けてひとりごちた。 ●残念ながら、その怪異な容貌はここに掲出できない。きつく禁止されているからである。「国宝 三井寺展」のパンフレットにも写真は出ていない。売店で売られている写真ハガキにも新羅明神像はのぞかれている。勿論場内は撮影禁止であった。 |
本 殿 | 新羅善神堂境内、西側より | 新羅三郎・墓所 |
かみがみのましますもり 続・神々の坐す杜 44.平成20年11月08日掲出