――――――続・神々の杜―――――――――――――――――――――――――――――――――
河内長野 西代神社 にしんだい 祭 神:國常立命 素盞嗚命、足仲彦命、氣長足比賣命、建内宿禰 品陀別命、菅原道真公 摂 社:戎神社、稲荷神社 鎮座地:大阪府河内長野市西代町16−5 |
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社 殿 | 本 殿 | ||||
当社の創建は詳らかではないが、南北朝時代は南朝方の諸将に崇敬されていたという。 もと西代大名神といわれていたが、明治のはじめに社名を西代神社に改めた。その後の明治41年、浦野神社、西山神社、菅原神社を合祀して現在に至る。 祭神については、國常立命は西代神社本来の祭神である。素盞嗚命、足仲彦命(仲哀天皇)、氣長足比賣命(神功皇后皇后)、建内宿禰は上原町の元西山神社の祭神である。また、菅原道真公は原町の元菅原神社の祭神であり、 品陀別命(応神天皇)は古野町の元浦野神社の祭神である。 明治末期に近隣の神社を合祀している。合祀した神社の一つ大字上原字西山の西山神社は、この地の伝承や祭祀されていた祭神から、仲哀天皇陵との関連があると考えられている。 |
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舞 殿 | 拝 殿 | ||||
西代神社南方には、河内長野市内の住宅地が広がっている。遠方には金剛山、神福山、紀見峠から岩湧山あたりが眺望できる。 河内長野は昔より河内国錦部郡「長野庄」といわれていたようであるが、明治の町村制施行により長野村が誕生。明治43年には町制を施行して長野町とした。その後、千代田村、天野村を長野町に編入。昭和29年には、三日市村、加賀田村、川上村、高向村、天見村と長野町が合併して市制を施行し、河内長野市となった。 市名は、長野県長野市と紛らわしく、重複を避けるため旧国名の河内を冠して、「河内長野市」としたといわれる。市制施行当時の人口は約3万人。 現在の人口は約12万になっている。 |
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境内南方の眺望 | |||||
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▼伝・仲哀天皇陵される高台には、赤峰市民広場、キャンプ場などがある | |||||
『河内長野市史』第一巻より――――― 上原の現地には、当時の面影をしのばせる建物や石造物は一部の石垣のほか現在何一つ残っていない。『陵墓図』の仲哀社の址とされる場所は竹林になり、石垣は存在するがどこまでが原状を示すものか判定し難い。墳丘らしい頂上には、現在送電線の鉄柱が立っているが、この辺りが『陵墓図』に描かれている方形区画の場所にあたるのであろうか。 『大阪府全志』は、「西山神社は勧請の年月詳らかならざれども、旧領座地の里伝によれば、仲哀天皇御陵と関連せるものの如く」と記している。西代神社では上原村元西山神社からの合祀の祭神は、足仲彦命・気長足比売命のニ柱としている。このニ柱は仲哀天皇と神功皇后のことで、前記の『村明細帳』記載の“上原村氏神仲哀天皇社”の後身であることは間違いない」(後略)としている。 |
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電柱に「上原西町」の表示がある 西山神社の跡地はこの辺り? |
頂上に鉄塔 ▲「伝・仲哀天皇陵」 その南側の天然温泉「風の湯」 |
参照:●伝・仲哀天皇陵 ●仲哀天皇宮・御陵古図 |
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