河内長野 蟹井神社 かにい

祭  神: 神倭伊和礼彦命(神武天皇)・誉田別命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)

鎮座地:大阪府河内長野市天見428
南海高野線・河内長野駅の近くを通る国道371号線を、
紀見峠の方へ向かうと、国道の左手に天見温泉がある。
ここには天見川が流れており、すぐ川上の対岸に小高い森が、
こんもりとして、一目で神社であろうことが見て取れる。

ひっそりと佇む社殿

蟹井神社は、天喜2年(1054)の創建と伝えられ創建当時”甲斐神社”と呼ばれていたという。
しかし創建以来たびたび災禍に遭い、文書・史料を失い、由緒等詳らかではない。
南北朝の頃、楠氏一族が戦勝を祈願したというが、延宝4年(1676)の火災で焼失した。当社の南の天見川に蟹井の渕があり、これが社名の起源ともいわれる。
元禄5年(1692)の『寺社吟味帳』には八幡宮と記されている
明治40年(1907)、天見村天見の八幡神社、岩瀬の菅原神社をこの天見の蟹井神社に合祀した。氏地は天見と岩瀬で、秋には提灯を仕立て祇園囃子を唄いながら参詣する、「提灯祭」という祭りがある。 ―河内長野市史―

●この神社の社名の由来だが、甲斐の転訛の説、蟹井の淵からきた説、この辺りで蟹が多く取れたからとする説、などがあるが詳らかではない。神社というのは、その地を治めていた首長の祖神を祀るもとすれば、蟹が多く取れたからといって神社名にはしないだろう。
●蟹といえば、筆者は掃守部(掃部)を思いおこす。掃守(かもん)は蟹守である。

諸国に機織の技術を伝えたといわれる倭文氏、倭文神社の宮司家は代々蟹守氏である。
新撰姓氏録左京神別中・天神に掃守連 振魂命四世孫天忍人命之後也。とある。
また、河内国神別・天神にも、掃守連 同神四世孫天忍人命之後也。とある。 ―参考 『新撰姓氏録の研究』 ―

蟹井の杜 境内入口の急な石段、右の石柱には「蟹井神社」

かみがみのましますもり  続・神々の坐す杜  19.平成19年11月06日掲出


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