やさか掲示板

過去ログ7[350]〜[301]

[350] Re[349]: 川上ダムの昨今は 投稿者:やさか 投稿日:2004/12/14(Tue)
>  丹生川上神社上社の所に川上ダムが出来ています。水を貯めると地滑りが起こって具合が悪いとかで、あまり役に立っていないようですが、最近はどうなんでしょうか。土壌に問題があるのでしょうか。

こんばんは。
川上村の大滝ダムのことですね。
ダムは完成しているようですが、ご存知の通り白屋地区の地すべり問題が起きたので現在、水は殆ど貯めていません。
吉野川を挟んで丹生川上神社上社の対岸が白屋地区ですが、標高1176mの白屋岳が真後ろに迫っているので、その強大な土圧?の所為かも知れませんね。
この大滝ダムは、水利や水力発電などの多目的ダムとして計画。完成が大幅に遅れていたにもかかわらず、この騒動で更に遅れて完成稼動は2009年になるといいます。
これでは無用の長物になりかねません。莫大な工費を「ムダ」にする「ダム」は本当に必要なのか大いに疑問ですね。
土壌に問題があるのかどうかは知らないのですが、もしそうであれば、それも着工までの事前調査に手落ちがあったということでしょうか。

>  河内長野の南で和歌山県に入った所に田園都市と称する住宅地が開発されています。この辺りは相当色の濃い赤土で、なかなか固まらないようで、果たして良い住宅地なんだろうか、と思っています。

河内長野の南、和歌山県橋本市の「林間田園都市」は、たしか南海電鉄が開発した広大な住宅地ですが、赤土が多いとは知りませんでした。いわゆる「関東ローム層」のような土質でしたら、中低層の住宅地としては問題はないのでしょうが、赤土も色々で、水はけが悪く耕作にも宅地にも不向きな土がありますからね。それに橋本林間田園都市は、大阪へ通勤する人には少々遠すぎるのではないかと思います。

>  川上ダムの付近はそれほど赤い土壌ではなかったと記憶していますが、ダムを建設する際に土壌調査をしているはずで、その資料の中に土壌中の含有鉱物などが分析されていれば、これは面白い資料になるかなと思っています。ツテはありませんか。

丹生川上神社上社の対岸は赤土ではなく、岩肌が見えていたように思うのですがねぇ。(以前、神奈備別荘に対岸写真が出ていた?)

そうですね、土壌調査の資料があれば面白いですね、含有鉱物のデータも出ているでしょうから。残念ながらツテはありませんが、機会があれば調べてみたいと思います。

[参照]

http://www.kkr.mlit.go.jp/kinokawa/siraya/project_team/index.html


[349] 川上ダムの昨今は 投稿者:神奈備 投稿日:2004/12/14(Tue)
 丹生川上神社上社の所に川上ダムが出来ています。水を貯めると地滑りが起こって具合が悪いとかで、あまり役に立っていないようですが、最近はどうなんでしょうか。土壌に問題があるのでしょうか。

 河内長野の南で和歌山県に入った所に田園都市と称する住宅地が開発されています。この辺りは相当色の濃い赤土で、なかなか固まらないようで、果たして良い住宅地なんだろうか、と思っています。

 川上ダムの付近はそれほど赤い土壌ではなかったと記憶していますが、ダムを建設する際に土壌調査をしているはずで、その資料の中に土壌中の含有鉱物などが分析されていれば、これは面白い資料になるかなと思っています。ツテはありませんか。

[348] 富士山動き…[此噺昨夜夢] 投稿者:やさか 投稿日:2004/12/08(Wed).
昨夜とは言っても本日未明のこと、富士山が噴火した夢を見て目を覚ました。
それは怖い夢で、師・山内光雲の歌を彷彿として思い出させるものであった。
その歌の一説。

…山すべて動きーーー
汚れたる大地を をーーーーーー 
清める波来て 山をむしり 崖を落とし 地の底にーー
悪しき土塊を その割れたる赤き土の火の間に投げ込む
海狂うて叫び 風鳴いて走り 夏の空に火の花を咲かすとき 
冨士山動き その日がその周りの町 全て海の底に入るときーー
……

今日は十二月八日。
思い出すのは、昭和十年十二月八日、第二次大本事件が起ったことである。
六十九年前の大本の「雛型経綸」は近年夏に発動するか? 

[347] 帰化系氏族 投稿者:やさか 投稿日:2004/12/06(Mon)
>それは、阿智王の息子、爾波伎のことで、

そうですね、同逸文には、
「姓氏録曰。弟腹爾波伎是也。山口宿禰。…中略…大和國吉野郡文忌寸。紀伊國伊都郡文忌寸。文池邊忌寸等八姓之祖也」とありました。
新撰姓氏録の皇別、神別、諸蕃の内、「諸蕃」が渡来系だといわれているようですが、皇別や神別にも渡来人(帰化人)系と思われる氏族が多数いますよね。まぁ考えてみれば、どこの国でも土人(ネイティブ)は一握りで、殆どの人達は[渡り来た人]ですから。
たとえば左京皇別、吉野眞人は大原眞人と同祖で、
「出自謚敏達孫百済王也。續日本紀合。」などとなっていますが、どうも渡来系のにおいがします。

>マルコ山が六角形

明日香村教育委員会の発表ですね。円墳ではなく、方墳でもなく、六角墳?とは興味深いことです。

[346] 訂正 投稿者:ちゅーじ 投稿日:2004/12/06(Mon)
阿智王の息子、志努について誤りがあります。新選姓氏録逸文に阿智の息子の志努を吉野文忌寸と池辺忌寸の祖と紹介しましたが、まちがいでした。訂正しておきます。それは、阿智王の息子、爾波伎のことで、志努は東漢費直の祖でした。勘違いをしておりました。志努も爾波伎も阿智王の子孫でありますし、問題にした吉野文忌寸も池辺忌寸もその系列でありますので、いずれにしても帰化系氏族で同族関係にあったんでしょう。また、吉野に榎井忌寸も阿智王系列の氏族としてあげられています。氏族のことをあげればほとんど、帰化系になってくるんでしょうが、どうも吉野と和泉の関係が気になります。ああ、今日の新聞記事にマルコ山が六角形であると報道されていましたね、前園氏は天智の息子の川島王の墓である可能性を指摘されていました。

[345] Re[344]: 柿 投稿者:やさか 投稿日:2004/12/02(Thu)
> 柿しぶってしってます?川にこれを流すと魚が一時的にまひしてういてくるらしいですよ。それをとってたべるみたいなんですが。吉野らしいんですけど、今でもやってる人いるんでしょうか?

「柿しぶ」は知っています。防腐、防水、染料にもなるようですね。
子供の頃、五條の傘屋さん(前がバス停になっていたので)で番傘つくりをよく見ていました。褐色の液体を何度も塗っていました。たぶんあれが「柿しぶ」だったのではないかと思います。
柿しぶで魚取りは知りませんでした。見たこともありませんでしたが、きっと取れるでしょうね。毒ではないので取った魚は安心してたべられますね。
その頃、吉野では自動車のバッテリーを使って一時的に感電させ魚をとる人がいましたが、子供心に何となくいやだった思いがあります。
それに比べて柿しぶの魚取りはいいですね。

ところで柿しぶ用の柿は「渋柿」だと思うのですが、子供の頃好きでよく食べた柿は「甘柿」ですよね。ゴルフボール位の小さな柿ですがとても甘かったですね。この柿の木は見上げるような大木になり、高いところにおいしい実をつけるので、どうしても木登りをしなければなりませんでした。
今から考えると危ない遊びをしていたもんです。

ふる里に行くと所々にこの甘柿の木を見かけるのですが、この季節になっても誰も取る人がいないのか鈴なりになったままです。子供たちばかりか、カラスまでもが喰いあきたのでしょうかねぇ。

[344] 投稿者:かまど 投稿日:2004/12/02(Thu)
やさか様
柿しぶってしってます?川にこれを流すと魚が一時的にまひしてういてくるらしいですよ。それをとってたべるみたいなんですが。吉野らしいんですけど、今でもやってる人いるんでしょうか?

[343] Re[341]: 丹生神社のいちょう 投稿者:やさか 投稿日:2004/12/02(Thu)
> こんばんは、かまどです。
> 丹生神社のいちょう見させていただきました。柿とあわせ実家を思い出しました。今後とも宜しくお願い致します。

かまどさん、こんばんは。
柿といえば今ごろの季節、子供の頃は柿の木に登ってポッケット一杯に柿をとっていました。それで落っこちて腕を骨折したこともありましたけどねぇ。
でもいい思い出です。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。

[342] Re[340]: 吉野監と和泉監 投稿者:やさか 投稿日:2004/12/02(Thu)
ちゅーじさん、ありがとうございます。
そうですね。吉野監と和泉監は国と同等の、特別の権限を持った自治区のようですね。なぜか吉野と和泉は特別なんです。
なぜ「監」と呼ばれる特別な官吏を置いたのでしょうね。
考えられるのは吉野も和泉も、特に渡来系と密接な繋がりがある有力氏族が多いこと、そして政権の中枢も渡来系の寡占状態であったと言えるのではないかと思うのですが、如何なものでしょうか。

[341] 丹生神社のいちょう 投稿者:かまど 投稿日:2004/12/01(Wed)
こんばんは、かまどです。
丹生神社のいちょう見させていただきました。柿とあわせ実家を思い出しました。今後とも宜しくお願い致します。

[340] 吉野監と和泉監 投稿者:ちゅーじ 投稿日:2004/12/01(Wed)
国に準ずる行政区画として、吉野と和泉に監(げん)とよばれるものを置いています。なぜ、吉野と和泉なんだろう?それに、やさかさんご指摘の新選姓氏録逸文に阿智王の息子、志努を祖として、吉野に文忌寸、和泉に池辺忌寸が存在します。その溝辺(池辺)直氷田が樟木を茅渟の海から取り上げた!とあります。どうも、吉野と和泉は関係が深そうです。そういう関係から吉野寺に樟木で作った光り輝く(放光)仏像を祭ったのでは??と考えています。いずれにしても、百済系の帰化氏族が吉野・和泉に存在し、蘇我氏との結びつきがあったように思います。さらに、離宮といえば、吉野離宮に茅渟離宮がありますね。一方は山、一方は海、どうも吉野と和泉は関係が深い????

[339] 比蘇寺と茅渟の海 投稿者:やさか 投稿日:2004/12/01(Wed)
たしかに書紀、欽明天皇十四年(553)五月の条に溝辺直が茅渟の海で見つけた樟木(楠木)で仏像二体を作らせ天皇に奉ったというような記事がありますね。仏像は阿弥陀如来だそうですが、その一体がなぜ吉野寺(比蘇寺)に収まることになったか、たしかに疑問です。

宮坂敏和著「吉野 その歴史と伝承」によりますと、
比蘇寺は、用命天皇二年聖徳太子が創建、四天王寺、法隆寺、法興寺とともに四大寺と称せられ、別名を吉野寺と唱えたと寺伝にあるといいます。
また宮坂氏は、比蘇寺私考/堀池春峰著には「この寺の草創は比曽の地が峠一つ距てた高市地方に多かった帰化氏族が拡がってきた地とみられる所から帰化人の氏寺的性格という小寺から発足したのではないか」と述べられているそうです。
また、仏像を献上した溝辺直(池辺直)は、「新撰氏姓録の研究」佐伯有清著には「和泉国諸蕃の池辺直は文池辺忌寸氏の同族あろう。同条には坂上大宿禰同祖。阿智王之後也とある。」と書かれています。阿智王の後裔とは、つまり百済系帰化人の後裔ですね。

以上のようなことから比蘇寺はもと吉野寺と言われていた帰化人系の大寺で、朝廷からも厚く庇護されていたと考えられます。また、和泉国の池辺直は比蘇寺の高僧と同じ渡来系ということから密接な関係があったと思われます。
それで天皇に献上した二体の仏像の内の一体は、後に吉野寺(比蘇寺)に賜ることになったのではないでしょうか?(池辺直の国には仏像を作った楠木を見つけた茅渟の海が広がっている)

勝手な推理をしましたが、私もよく分かりません。
何方かお考えを披露してくださいませんか?
ちゅーじさん、「最近、すこし、おもいあたることがあるのですが、…」を公開していただけませんか。

以下は参照頁:「比蘇寺跡」

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yosinoji2_002.htm


[338] 丹生川上神社 投稿者:ちゅーじ 投稿日:2004/11/30(Tue)
このサイトにきて、始めて丹生川上神社の基といっていいか、その本当の姿をしったようにおもいます。丹生川上上社、中社、下社の三社があり、それぞれ、川筋を別にしており、とおく離れているのはどうしてか?理解に苦しむところでした。江戸時代に、われも、われも、丹生川上神社と名乗りを上げた結果だったんですね。起源は下社の丹生川筋だったんですね。参考になりました。さて、わたしのこだわりは、比蘇寺の仏像です。なぜ、欽明14年の記事で登場する楠木の仏像ですが、茅渟の海で発見されたのが吉野に置かれる(まつられる)ことになったのか、茅渟と吉野の関係です。最近、すこし、おもいあたることがあるのですが、根拠が薄いので、、、。どなたか、お考えがありますでしょうか?

[337] Re[336]: やさか様 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/30(Tue)
なにがしさんの「新しい展開」に声援を送りたいと思います。
「神奈備」さんの掲示板をはじめ、また神社や古代史に所縁のネット上に、書き込みが拝見できることを期待しています。

[336] やさか様 投稿者:なにがし 投稿日:2004/11/30(Tue)
こんばんは。
最近まわりがばたばたしてきまして、正体がばれそうになってきましたのでそろそろいい時期かと。
今度はハンドルネームを変えて(やさか様なら誰かわかるような)かきこさせていただきます。
丹生津姫神社が世界遺産になったためか、新しい展開を迎えようとしております。詳しくは言えないのでお許し下さい。数年後にはお話できるようになると思いますので、それまでお待ちを。

[335] Re[333]: 丹生津姫神社 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/29(Mon)
> ごぶさたしております。
> 先週の土曜の「世界ふしぎ発見」でも出てましたね。

なにがしさん、こんばんは。
こちらこそ、ご無沙汰しています。
丹生都比売神社、最近この神社名を見ることが多くなりました。
「丹生」/にう/の読みも知っている人が増えてきたのではないでしょうか。
以前にも書きましたが、今まで私が参拝した神社の中で、自分が生まれ育った村の産土神を除くと特に好きな神社の一つですので、あの優美な丹生津姫の神社が脚光をあびるのは嬉しいことです。

ところでなにがしさん、HPを閉店されるそうですね。
狩場明神物語や百合野のかおりなど、楽しみにしていましたのに残念です。
また、近い将来の再登場を期待しています。
今後ともよろしくお願いします。

●以下のアドレスは、なにがしさんのHP 「WHAT'S 丹生」

http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html


[334] Re[332]: 興味津々 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/29(Mon)
ちゅーじさん、やさか(管理人)です。はじめまして、ようおこし。

> 最近、櫃ヶ岳の近くに探索(祖先のルーツ探し)してきました。

ご存知吉野三山・櫃ヶ岳は、吉野郡下市町と西吉野村にまたがった地域にあります。私(前のH.N.はマルヤ)のルーツもそのあたりです。もしよろしければちゅ―じさんの御祖先のことなどお聞かせください。

> 小生、吉野にも興味あり、また、大海人皇子・宇野皇女にも大変興味有りで、このサイトに辿り着きました。吉野三山はじめ吉野首、国栖など興味ある記事がいっぱいです。今後ともよろしくおねがいします。

そうですね。私も天武・持統両天皇など、古代史と吉野の係わりに興味がつきません。私のHP中でお気付きのことや、外にご存知のことなど教えていただければ幸いです。
こちらこそ、よろしくお願いします。

[333] 丹生津姫神社 投稿者:なにがし 投稿日:2004/11/29(Mon)
ごぶさたしております。
先週の土曜の「世界ふしぎ発見」でも出てましたね。

[332] 興味津々 投稿者:ちゅーじ 投稿日:2004/11/29(Mon)
最近、櫃ヶ岳の近くに探索(祖先のルーツ探し)してきました。小生、吉野にも興味あり、また、大海人皇子・宇野皇女にも大変興味有りで、このサイトに辿り着きました。吉野三山はじめ吉野首、国栖など興味ある記事がいっぱいです。今後ともよろしくおねがいします。

[331] 丹色の共演 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/28(Sun)
昨日のサンケイ夕刊、「秋彩」のコラムに丹生都比売神社の記事が出ていました。

まず第一面上段に大きな写真。
そこには目にもあざやかな紅葉が、太鼓橋を背景にして見事なアングルでとらえられています。
さすがプロのカメラマンですね。丹生都比売神社は何度も参拝して写真もとりましたが、やはり腕が違います。
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[記事一部抜粋]
鳥居をくぐると二つの「赤」の競演が視界に飛び込んでくる。
境内の木々の紅葉と、「太鼓橋」の朱。
さらにその奥でも室町時代の建築とされる国の重文「楼門」が朱の光彩を放つ。……後略
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紀伊山地と参詣道などが世界遺産に登録されたので、夜は太鼓橋や楼門など境内がライトアップされるとのこと。
女神を祭るにふさわしい優雅な社殿は、丹色化粧のあでやかさが更に際立つことでしょうね。

[330] 播磨の大先達 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/19(Fri)
先ごろ兵庫県神崎郡香寺町の田川神社に参拝しました。
播磨国神埼郡の式内社で、神功皇后(気長足姫命)をお祭りしていると謂われます。
境内には町指定天然記念物の大欅やさざれ石がありました。
参拝した当日は祭礼日でしたが、神社には神官は居られず、在所の古老が二人酒を飲んでおられ、こちらにも振舞ってくれました。美味しい地酒を戴きながら話を聞きました。
境内のケヤキは樹齢600年くらい、さざれ石は後背の山から切り出したものとのこと。今日、宮司さんがいないのは隣村と兼務で、祭礼が重なったため宮司さんは自分の生まれた村の方へ行っているとの話。
「この田川神社の方がずっと格式が高いのになぁ」と残念そう。
古老の一人は、天台修験の大行満正大先達、大僧正の肩書きの方でした。
80歳半ばとのことでしたが矍鑠としておられ、今も現役で奥駈けを先導しているとのこと。
吉野へはよく行き、その時は必ず桜本坊に立ち寄るとのことです。
修験道の話を聞かせて戴き、帰りには書写山円教寺に参拝してはどうかと勧めて下さった。
円教寺といえば映画「ラストサムライ」の撮影が行われた古刹ですね。
田川神社参拝のあとは、予定通り生野銀山を訪ねたので円教寺へは行けませんでした。
次の機会には書写山へも上ってみたいと思っています。

[329] [326]関連/有栖川宮韶仁親王祈願所 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/13(Sat)
当やさか掲示板、過去ログ[213]に以下の書き込みがあります。その一部を再掲出します。

●[213]有栖川韶仁親王と波宝神社

西吉野白銀岳波宝神社は、有栖川韶仁親王の祈願所になっています。
…中略…
不思議なのは、何故このような山奥の山頂の神社を、筆頭皇族の有栖川宮家が「祈願所」にされたかです。
当時、有栖川宮韶仁親王は神祇事務総督、神道総裁でもありました。神社を統べる地位にある御方が、全国にあまたある神社の中から、何故「波宝神社」を祈願所に定めたのでしょう。このことは波宝神社神宮寺僧、義仙が知っていたと思えます。義仙は京都にも名を知られた人物だったようですが、出自・素性はよく分かっていません。
有栖川宮家の文書には残されていた(有栖川宮家廃絶後は高松宮家に残されている?)とも思えるのですが、今は知るよしもありません。
ちなみに韶仁親王の御孫の熾仁親王は、戊辰戦争征討大総督、陸軍大臣で婚約者は有名な悲劇の皇女・和宮さまでした。
また、皇道大本の聖師 出口王仁三郎はこの熾仁親王の御落胤という説があります。
以下は波宝神社の参照ページです。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/himekami_010.htm

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yasiro_001.htm


[328] 鎮魂・平和祈願祭のお知らせ 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/12(Fri)
「天正伊賀の乱敵味方鎮魂・地球平和祈願」の祭典が行われます。
○と き:平成16年11月23日(火・祭日)午前11時から
○ところ:伊賀国一の宮・敢国神社
○主 催:全国一の宮巡拝会

詳細は下記ホームページをご覧ください
●全国一の宮巡拝会・横井世話人のHP
http://www.mmjp.or.jp/Shinwa_h/kamikaze7,1start.htm

●全国一の宮巡拝会・事務局のHP

http://www.ichinomiya.gr.jp/web/index.html


[327] Re[325]: 鎮魂帰神と石笛 訂正! 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/12(Fri)
> 野和三郎は、「大本の『鎮魂帰神』」のなかで次のように書いています。
>
上記「野和三郎」は浅野和三郎の間違いです。下記のように訂正します。

●浅野和三郎は、「大本の『鎮魂帰神』」のなかで次のように書いています。

[326] 吉野入りした王仁三郎 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/12(Fri)
神道学者大石凝真寿美は、「吉野山には金鉱がある」と言ったと云い、出口王仁三郎も、吉野の「金峰山や八幡山には金がある」と言ったといいます。
あの「おほもと」の聖師・王仁三郎も吉野へ行ったことがあるようです。金鉱でも探しにいったのでしょうか。
大本の年表によれば王仁三郎は大正6年4月24日、鶴殿親子らと吉野へ行き上市で一泊。翌25日は川上村の柏木まで行ってもう一泊した。そして翌日そこから更に山に入り八幡神社に参拝して帰ったといいます。
また、大正9年5月にも吉野へ行き、龍門岳にも登っています。
この吉野行きで上市と川上村で宿泊していますが、それが何処かは分かりません。また参拝した八幡神社も何処の八幡神社かは不明です。
吉野といえば銀峯山・波宝神社は、「有栖川宮韶仁親王祈願所」になっていたのですが、王仁三郎はそれを知っていたのか、また参拝したのかどうかは全く分かりません。

●鶴殿親子:明治天皇皇后(昭憲皇太后)の姪、醍醐家の次女で大本信者。
●龍門岳:標高904m、中腹に龍門寺跡があり、この龍門寺は吉野町史によると、平安時代は隆盛を極め元慶三年(879)清和天皇が参詣。また治安三年(1023)には藤原道長も参詣したという。
●有栖川宮家:
第七代:韶仁親王(つなひと)
第八代:幟仁親王(たかひと)
第九代:熾仁親王(たるひと)…婚約者は皇女和宮(徳川家へ降嫁)
●出口王仁三郎(本名/上田喜三郎)は、有栖川宮熾仁親王の御落胤という説があり、韶仁親王は熾仁親王の御祖父である。

第二次大本事件のあと、王仁三郎はこんな歌を詠んでいます。
○父君と名乗りもならぬ運命の綱に曳かれたる身ぞ悲しき
○惟神(かんながら)奇しき運命たどりつつ世に生ましたる人ぞ地にあり
○ありありとすみきる和知の川水は汚れはてたるひとの世洗う

[325] 鎮魂帰神と石笛 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/12(Fri)
野和三郎は、「大本の『鎮魂帰神』」のなかで次のように書いています。

○鎮魂帰神は日本太古から伝わる天授の神法である。
○二千年前までは朝廷に於いて、国家の大事を決するにあたり、常にこの神法を用いて神慮を伺った。
○人間は肉体の外に霊魂があり、霊肉一致して活力を生ずる。
○人の肉体は死と共に滅びるが、霊魂は個性を帯びて永久に実在すること。
○霊魂の姿は肉の五感にはかからないが、身魂を研きて修行すればよく姿を見、其声を聴き、其臭を嗅ぎ得ること。
○人の肉体は神の生宮(いきみや)として造られ、いかなる人にも終生附き通しの守護神があること。
……以下略。

また、「鎮魂帰神の実際」として次のように記しています。
『ピィーイ』と抑揚のある冴え透った滲み亘るやうな笛声、……
審神者/鎮魂の歌、唱える神名…、そして石笛。
型のごとく手を組み、神名を唱え……後略

「石笛」については三島由紀夫は小説・英霊の声で次のように表現しています。/部分抜粋

/石笛の音は、きいたことのない人にはわかるまいが、心魂をゆるがすような神々しい響きを持っている。清澄そのものかと思うと、その底に玉の様な温かい不透明な澱みがある。肺腑を貫くようであって、同時に春風駘蕩たる風情に充ちている。古代の湖の底をのぞいて、そこに魚族や藻草のすがたを透かし見るような心地がする。又あるいは、千丈の井戸の奥底にきらめく清水に向かって、声を発して戻ってきた谺をきくような心地がする。/

[324] 浅野和三郎について 投稿者:やさか 投稿日:2004/11/10(Wed)
皇道大本で重きをなした浅野和三郎について書いておきたい。

浅野和三郎(1874〜1937)
「あさのわさぶろう」は東京帝国大学英文科で小泉八雲に薫陶を受けたといわれる。
帝大卒業後は明治33年(1900)から大本に入信する大正4年(1915)まで海軍士官学校の英語の教官であった。
(ちなみに退官後の後任の教官は芥川龍之介。また、和三郎の兄は海軍少将)

第一次大本事件で教団を去るまで教団に大きな足跡を残した浅野和三郎は大正4年に大本へ入信。
大正5年、綾部に移住した浅野和三郎は大正6年、機関紙「神霊界」の主筆兼編集長に就任し、教化宣伝・広報活動の先頭に立った。
のちには王仁三郎から大正日日新聞社の社長を任せられ、「大本の浅野か、浅野の大本か」とさえ云われた時期もあったという。
浅野は当時の教団きっての知識人で、その人脈から軍関係者や各界知識人層の教団入信に大きな影響力をあったといわれる。

神懸りや審神といえば、天細女、神功皇后、武内宿禰が思い浮かぶが、鎮魂帰神を最初に体系化したのは本田親徳といわれ、
その弟子が長澤雄楯。その長澤を師と仰ぐ出口王仁三郎に心酔した浅野和三郎は大本の大番頭的な立場に立ち、
大本の鎮魂帰神法を体系化、実践したという。(浅野和三郎が心酔、傾倒したのは王仁三郎ではなく、実は「出口なお」であったとも)
大正10年2月、第一次大本事件で教団を去った浅野は、12年「心霊科学研究会」を設立。大本での経験を元に浅野は「大本霊験秘録」などを著した。
ほかに心霊研究の第一人者として、「心霊主義」、「心霊講座」、「小桜姫物語 霊界通信」など、心霊研究の著作がある。

大本の鎮魂帰神法は浅野和三郎が体系化(カリキュラム化)したものらしいが、大本には今やその技術はないように思う。

[323] ヘルンさんへ追白 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/30(Thu)
へるんさん、夕べあなたの夢を見ました。
あなたはやはり日本に転生していました。まだ赤ん坊でしたけどね。
あなたがもう少し大きくなって、もの心がついたら今の日本にがっかりするかも知れません。
神社やお寺の境内で遊ぶ子供たちのにぎやかな声、遊ぶ姿が今では遠い昔の夢のようなのです。
かわいそうに今の子供たちは受験勉強におわれて大変。遊びはもっぱら家にこもって、えれき遊技機で遊ぶ程度なんですから。
あなたが好きだった軽やかにひびく下駄の音も聞こえなくなって久しくなりました。
あの時代が恋しくなつかしいですね。

ところであなたが帝大で英語の講師をしていた頃、教え子に浅野和三郎という人物がいましたね。
その浅野和三郎はのちに皇道大本に入信し、大きな影響を人々に与えました。
大本は新興宗教のゆりかごのような処でした。出口なお、王仁三郎のもとには、浅野和三郎をはじめ友清歓真、谷口雅春、岡田茂吉など、
後に教団を興した人物が集まっていましたから、そういった人たちにも浅野和三郎を通して、あなたは間接的に影響を与えたのではないかと思います。
そのように多くの人に影響をあたえ続けているへるんさんにお願いです。
先の戦争で日本は破れ、戦後において、戦前の日本はその教育をはじめ、全て間違いだったと否定され道を失ってしまいました。
なるほど経済は世界が驚くような発展をしましたが、心は荒廃の一途をたどっています。
このような時代にこそ、昔の日本がもっていた神々と共に生きる、人を思いやる優しい心が必要なのではないでしょうか。
日本に転生して大きくなりましたら、もう一度古き日本のよさを今の時代に取り戻す、そんな努力をしてください。
どうかよろしくお願いします。

へるんさん、多くの人にあらためて日本を見つめなおすよう、御本を残してくれてありがとう。
へるんさんのファンは昔も今も大勢います。
二十年以上も前のことですが、大阪北新地のくらぶに「へるん」という名のお店がありました。
くらぶ?ええ、日本語ですよ。みやび酒場とでもいいますかね。
そこのくらぶの女将さん、美形でしてね。文学好きで、日本美人の典型でした。
もちろん、大のへるんさん贔屓でしたよ。

[322] ヘルンさんへ 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/29(Wed)
へるんさん、いかがお過ごしですか。

あなたが向こう岸へ往ったのは、ちょうど百年前の9月26日だったそうですね。
向こうへ往ってからもう百年、好きだった日本に今また生まれ変わっておいでかもしれませんね。
あなたがこよなく愛した日本はあの頃と比べますと随分変わりました。
ゆったりと流れていた時間は今はなく、誰もが一日中忙しく追われています。
今、あなたの残した御本を読んで、思い出していたところですよ。
私たちも気付いていなかった日本を、あなたは澄んだ目でみつめて美しく書き残してくれました。

「…この国の魅力は実に魔法のようだ。本当に神々の在す国さながら、不思議に人を惹きつける。色彩の霊妙な美しさ、とりわけ、山の頂を空中に漂うかに見せる、あの長くたなびく霞の裾の美しさといったらない。空と地とが不思議に混ざり合っていて、現実と幻が見分け難い国…」また、こういうのもありました。「…この日の朝がことのほか愉しく感じられたのは、人々のまなざしが異常なほどやさしく思われたせいであろう。誰もが珍しそうに眺めるが、その視線に敵意はおろか、不快なものは何もない。たいていは目が、にっこりと、あるいはかすかに笑っている。…」  ---部分引用:神々の国の首都/講談社学術文庫---

あの時の自然の美しさや、人々の純粋さはなくなっていますが、おほやしろはほとんどあの時のままですよ。
そしてあなたと一緒に参拝した八重垣神社、あのやしろも大体あの通りのままです。
<八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を>
ほら、あなたの名前も入ってる、この歌にある八重垣神社ですよ。憶えてますか。やしろのある佐草の地は細く険しい山道で、私は杖をつき、あなたは慣れない草履をはいて、あえぎあえぎ歩いてましたね。でも今は簡単に行けるようになりましたよ。

あ、私ですか?名前を申し上げても、きっとご存知ないと思います。
いえ、私はあの時のことはよく憶えていますよ。なにしろあなたは“きづきのおほやしろ”で初めて昇殿を許された西洋人ですから。
そのおほやしろへご案内した老いた神官が私です。
私は九十にも届くかといったよわいでしたが、あなたは男ざかりの四十代でしたね。
あの時もたしか九月でしたね。あなたは松江から蒸気船に乗って来て、千家尊紀様の許しが出て、私が昇殿参拝に付添いました。思い出してくれましたか。
私は一足先に日本に生まれ変わりましたが、もしあなたも日本に生まれ変わっておいででしたら、
どこかでまた逢えるかも知れませんね。そのときはきっと分かると思いますので声をかけます。

へるんさん、また節子さんのような女性に巡り逢えるといいですね。

[321] インフォームド・コンセント 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/27(Mon)
「現代用語の基礎知識」/自由国民社によれば、インフォームド・コンセントは、患者個人の権利と医師の義務という見地から見た法的概念である。…と詳しい説明がありますが、一言で言えば、医師による十分な説明と患者の同意ということにでもなるのでしょうか。

●産経新聞9月26日の朝刊の記事には
インフォームド・コンセントは単なる“説明と同意”ではなく患者の理解が条件だとして、
木村利人・早大名誉教授の言葉を載せています。
木村先生によると、インフォームド・コンセントで医師らが患者に正しく説明すべきことは主に
@診断結果に基づいた現在の病状
A治療に必要な検査の内容と目的
B治療の危険性と成功の確率
Cその治療法以外の方法
Dあらゆる治療を拒否した場合にどうなるか
以上の五点にあるといいます。

一番大事なのは患者自身がよく考えて、どうするのが自分の身体に最良の方法なのか、自分自身で決断することだと思います。
お医者さんの説明をよく聞くことは大切ですが、医師は客観的な判断を下すだけなのです。
自分の身体は自分が一番よく分かるはずです。
患部に意識を送り、自分の身体に聞いて自分の意思で治療法方を選択することがとても大事だと思うのです。

[320] Re[317]: 訂正 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/25(Sat)
読み直していて気付きました。下記、訂正したいと思います。

「…癌が発生した臓器の部分…」及び「…発生増殖すると考えられ…」の文中、
「発生」は「発症」の間違いです。
また、
「…医師法、薬事法に抵触するからなのです」は、「…医師法、薬事法に抵触する恐れがあるからなのです」に、
「…門外漢だからこそ書ける独り言でした」は、「門外漢のたわごとでした」に訂正します。

[319] Re[318]: 医者のストライキ 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/25(Sat)
神奈備さん、おはようございます。

ありがとうございます。生意気なことを書いてしまいましたが、例えば盲腸炎(虫垂炎)などは手術で切除してもらわないことには、腹膜炎を起こして死んでしまいますものね。現代医療のお陰で助かっていることも数多いことは承知しているのですが…、でも病院には怖さがあると感じます。お医者さんの中にも現在の医療に疑問を感じている人はいると思うのですが、当事者が改革を叫ぶのは、とても勇気がいることなのでしょうね。

[318] 医者のストライキ 投稿者:神奈備 投稿日:2004/09/25(Sat)
昨日の某テレビで海外での医者のストライキの話がでていました。除く急患。
ストライキ期間の国民の死亡率が下がったと統計的にでていました。ストライキ解除後には元に戻ったそうです。
病院から逃げるのは正しいようですね。

[317] 癌はなおせる、か? 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/24(Fri)
現代医学のがん治療の方法は、次の三つだそうです。
1.外科的手術によるもの
2.抗癌剤の投与
3.放射線照射
これが癌治療の三大療法として現在医療機関で行われている中心的治療法だそうですが、
これで癌は治るのでしょうか。

否、殆ど治らないものと思わなければなりません。
@早期発見・早期手術により治るといわれるが、ほとんど転移したり、再発しているようである。
A抗癌剤には深刻な副作用があり、その効果も一時的に増殖を抑える程度である。(新薬イレッサの副作用で大勢の人が死んでいる)
B放射線は局所への抑制治療なので転移している場合などは無効。また抗癌剤ほどではないが、やはり大きな副作用がある。

以上のように治療効果はあまり期待できません。なぜでしょうか。
最近の研究によれば、癌は遺伝子の異常による遺伝子の病気だそうです。
ですから癌が発生した臓器の部分を、いくら切っても削っても癌は身体のどこかから発病すると思わなければなりません。
それは癌ウイルス(遺伝子に異常を起こさせるウイルス)が血流に乗って身体のどこへでも出張し、弱いところがあれば発生増殖すると考えられるからです。
今まで早期発見・早期手術で切除し、治ったといわれるケースは、そのままでも治る性質の単なる腫瘍であったと思われます。

では、どうすれば癌を完治させられるのでしょうか。考えられるのは身体中の血液全てを完全に入れ替えることが出来れば癌は治せる思われますが、それは不可能と言わねばなりません。

病院で癌という診断をされると、治療効果の少なく副作用の多い様々な医療を施され、身体は傷つき苦痛で苛まれ、結局命を縮めてしまう。そんな入院生活を送っている人たちが大勢います。
では、どうすれば良いのでしょう。

まず病院から逃げ出すことです。
そして何故病気になったか、まず考えるのです。
職場環境、家庭環境、食事…何か思い当たることはありませんか?
食事内容も大事ですが、ストレス(心痛)これが一番心身のバランスを崩します。考えてみてください。

さて、癌遺伝子(癌ウイルス?)について考えてみます。
癌ウイルスは健康な人にも常駐してると考えられます。両親から遺伝的に誰もが受け継いでいるのです。
ですが健康な人は癌遺伝子の活性化を抑える、抑制機能が働いていてバランスを保っています。
この均衡が崩れると発病するのです。
でも通常は発病しても、抑制機能が更に強力に働いて発病を抑止してしまいます。
そのような訳で、実は私たちの身体は、(初期の)癌になったり治ったりしているのです。このバランス機能が崩れたときに増殖し癌細胞といわれるように肥大化します。これが今「癌」と呼ばれている病気なのです。

ところでこの癌ウイルスは人に寄生している訳ですが、癌が盛んに増殖していくとやがて宿主である人が死にます。
そうすると大抵の場合、火葬されるので癌ウイルスは死ななければなりません。
そのようなところから(ウイルスも死にたくないので)実のところウイルスも増殖などはせずに、宿主と共生していたいに違いありません。
この、バランスを保って共生させるようにすることが予防であり、治療だと思うのです。

では実際のところ、病院から逃げ出して来たとすれば、それから先はどうするんだ?と質問がありそうです。
それは、それは…言えないのです。
「そんなバカな!」「そんなことをすれば死ぬのではないか?」となどと言われそうだし、
それよりも、医師法、薬事法に抵触するからなのです。

○以上、門外漢だからこそ書ける独り言でした。

[316] 病院から逃げよう[2] 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/22(Wed)
D医師が「ひとつあなたの説に協力しましょう。私に勉強させてください」と言ってくれた。
それではと私は様々なお願いをした。一日も早く病院から逃げ出すためである。

まず、点滴を止めてもらった。そしてギブスはできるだけ早く外してもらえるようにお願いした。
入院して10日目で退院させてもらい、通院治療で経過を診てもらうことになった。
ギブスはL形に上腕まで固定されていたが短くしてもらい、二つ割りにして丁度竹を二枚合わせたような形のギブスにしてもらった。
カチカチに固めたギブスは腕を圧迫して血流を悪くしているし、できるだけ外気に触れさせることが回復の早道だと考えたからだった。

私は子供の頃、左腕を二度骨折していた。木登りをしていて高い枝から落ちたとき、そして鉄棒から落ちたときの二度である。
二度とも町の「骨接ぎ」で治してもらった経験があった。いずれも町から離れた山村から自転車を片手で運転して治療に通い、完治させてもらったのである。
そのときの経験や手指を動かしてみた感触から、脱臼さえ入れなおしてもらったら副木で固定し、安静にして後は自分でリハビリすればきっと治るはずだとの感触があった。

結局10日で病院を逃げ出し、ギブスで固定された腕が三角巾で首から吊るされていても、指だけはできるだけ動かすようにした。
そして早めにギブスを外してもらい、D医師の薦めにしたがって初めの数回は通院でリハビリをしてもらったが、自分の判断で止め、月一回のレントゲン検査による経過診断のみとした。(この経過診断はD医師の希望だった。手術をしなかった場合の回復の経過を記録して参考にしたいとのことだった)
その後は自然治癒力を信じ、懸命に我流のリハビリ・メニューで励んだ。

●結果的には想像以上に回復しました。50日で字が書けるようになり、90日経つと車が運転できるようになったのです。
そして180日経った頃からは電動自転車を買って乗り始めました。
一年を過ぎた今年の三月、またバイクに乗りたくなり買いました。右手は殆ど回復して、ブレーキレバーや、グリップアクセルも自由に操作できるようになったからです。
私は右利きでしたので、右手の握力は左手を5kgほど上回っていましたが骨折によりかなり低下、現在は左手と同じ位に回復してきています。今は手首の曲がる角度が少し足りないくらいで、骨折前を100とすると確実に95位まで回復したと思われます。
あの時、自然治癒力を信じて手術を辞退した選択は間違っていなかったのです。

●バイク事故の経験で、私は病院は怖いところだと思いました。黙っていれば過剰医療をされてしまうからです。
病院では医者の話をよく聞き、分からないことや疑問に思うことは質問して、後悔のしないようにしなければなりません。
私の場合は運がよかったと言えるかも知れません。D医師の初期手当てが良かったから、手術をしなくてもここまで回復できたとも言えます。
私は入院で貴重な教訓を得ました。例えお医者さんの意見でも、自分自身が判断して決めることが大事だと痛感したのです。
 

[315] 病院から逃げよう[1] 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/21(Tue).
自分の入院体験を書いてみたいと思います。

昨年1月、交通事故で入院する羽目になった。
バイクに乗っていて、見通しの悪い交差点で出逢い頭に乗用車と衝突、救急車でそのままC病院に運び込まれた。
ケガは右手首の脱臼と骨折及び手足の打撲・外傷。
即入院で手術と決まった。手術の日は外傷が治る日を計算して決められた。
脱臼の手当てをしてギブスを付け、手術の日を待つことになった。
入院したその日から朝夕点滴がなされた。それと手術のための検査である。
健康診断の後は、角度を変えて手首の何枚ものレントゲン写真、精密な断層撮影、それと心電図やエコー検査等々。

手術が近づき、D担当医から簡単なスケッチを見せてもらって、手術の詳細の説明があった。
チタンのプレートを手首に埋め込み、ボルトナットで六ヶ所、ビスを一箇所、ワイヤーで一箇所を固定。欠損している骨は腰骨から移植するという。全身麻酔で手術は2〜3時間で終了の見込みとのことだった。
執刀はD医師だが、A大学病院からB医師にも来てもらうという。
ケガの状態は、腕のケガとしては致命的な損傷で、手術をすれば50%以上80%まで回復。もし手術をしなければ50%以下になってしまうという説明だった。
私は一両日待ってほしいと言い、同意書にはサインをしなかった。
直感的に手術はしないほうが良いと思ったからだった。

翌日外出許可をもらい、図書館へ行き、医学書やインターネットで手首の骨折について調べてみた。
その結果、やはり手術はしないほうが良いと自分の考えを決めた。
何故かというと、一言で云えば事故によるケガより手術の際にできるケガの方が大きかったからだ。
それと様々なリスクがあった。感染症のリスク、輸血が必要になった際の血液のリスク。麻酔や手術そのもの等々。
それにチタンのプレートなどを入れると、後から取り去るにしても、ドアを開けるときにノブを回す場合のような手首の捻転が不自由になる恐れもある。橈骨と尺骨を6本のボルトナットで固定するというからである。

次の日、私はD医師に手術は辞退するとはっきりと申し出た。
D医師は、「えっ?」と自分の耳を疑うような顔をした。
今まで自分の治療方針に異議を唱え、こんなにはっきりと手術を拒否されたことがなかったからかも知れない。
「チタンのプレートなど手術の用意はもうできています」
「それに、このケースは絶対に手術です。私自身が被手術者でも、仮に親であっても手術します。そうしないと回復の見込みがないからです」D医師は力をこめて言った。
D医師に元々悪意はない。医師は現代医学の忠実な信奉者だからである。(医学や科学は現代の宗教と云えるのではないだろうか)
どんなに言われても私は頑なに手術を辞退した。
D医師はとうとう説得をあきらめ、「そこまで言われるなら仕方がない、協力しましょう」と言ってくれた。……

[314] ウイルスと自然治癒力 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/20(Mon)
風邪、下痢、それらは、元々人が(もちろん動物も)持っている自然治癒力がもたらす信号のようなものではないかと思う。
それを病院に行けば、風邪にかかって熱が出ているからと解熱剤、頭が痛いと言うと鎮痛剤、咳が出て苦しいと言えば咳止めを処方してくれる。これだけ薬を飲むと胃に悪いと思ってか、念の足りたことに胃薬も一緒に処方してくれる所もある。
また、下痢をしていると言えば下痢止めを処方するだろう。
現代医療はその症状の数だけ薬を追加していく。これが怖い。

「病のデパート」とまで言われながら、難病を克服した師・山内光雲から聞いた話を元に、以下少々書いてみる。

風邪や下痢などは病院などには行かず、身体を休ませて自然にまかしておくのが一番良い。
本来持っている自然治癒力が働いて、しばらくすれば健康体に回復するはずである。
鼻水や咳・痰、発熱による汗などは、老廃物や雑菌などを排泄する自浄作用と考えられる。
もちろん下痢などもウイルスの助けを借りた雑菌の排泄作用なので、下痢止めなどは不要だ。下痢は自然に止まる。
下痢により水分が不足するなどとして、点滴などするむきもあるがそんな必要はない。
ただ水やお茶などを飲んで水分を補給すればよいのである。

点滴は身体を冷やすし良いことは一つもない。
内服薬や点滴で体内に入れられた「異物」は身体中の器官が総動員で解毒、排泄作業に励まないといけないからである。

現代の病院の怖さは経営効率を優先させるところにある。
点滴は手間要らずで点数を稼げるため、どれほど不必要で、むしろ害のある点滴が医療機関でなされていることか。
また検査に次ぐ検査で、造影剤や放射線などで身体を痛めつけられることも多い。
投資した莫大な検査機器の償却をしなければならないため、これも不必要とも思える検査を何度もされてしまう。

いちばん怖いのは、治る可能性のない無用の手術である。どんな名外科医も最初から名医だった訳ではない、失敗もあり、反省もあり、手術の数をこなし場数を踏んだ経験で名医となってきたのである。
だからと言って、医学の発展のため、医学生の勉強のため、若手医師を育てるための教材として生身の身体を使われるのはごめんだ。
どうしても必要な手術なら、経験豊かな医師の立会い指導のもとの手術はいいだろう。
だがもし不必要な、治る見込みの無い手術までやられるとしたら患者はたまったものではない。
手術が最も点数が稼げるので、すぐに医者は切るといい、経営者からもそのような医師は歓迎される。
安易に手術に走る現代医療の怖さがここにある。
人間は機械やその部品ではない。医者には自然治癒力を高めることを第一義とした原因医療を望みたいものである。

●山内光雲/参照: 

http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yamauchi_001.htm


[313] 鎮魂・平和祈願祭のお知らせ 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/17(Fri)
「天正伊賀の乱敵味方鎮魂・地球平和祈願」の祭典が行われます。
○と き:平成16年11月23日(火)午前10時から
○ところ:伊賀国一の宮・敢国神社
○主 催:全国一の宮巡拝会

詳細は下記ホームページをご覧ください
●全国一の宮巡拝会・横井世話人のHP
http://www.mmjp.or.jp/Shinwa_h/kamikaze7,1start.htm

●全国一の宮巡拝会・事務局のHP

http://www.ichinomiya.gr.jp/web/index.html



[312] 有情慟哭 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/16(Thu)
> ウイルスの本質は「空」、いや「食う」か。
>
生体に寄生するウイルスもまた有情。
実のところ、ウイルスは共生したいのかも知れません。宿主に異常が起こるとプログラムが発動し、正常に回復させようとその行動をはじめ出す、現代医療の欠点「対症療法」の対極かもしれません。

> 『宗教民族講義』五来重著 「風葬された霊が山の神となり、水葬された霊が海の神となる。日本の民俗学ではこのように神観念が説明することができる。」
> 死者の霊の浄化されたものは日本の神観念の一部だとは思いますが、これで説明できると云うのには納得しかねる所。
>
私もこの説には全面的には納得できません。同感です。

> 氏はつづいて、高野山の麓に風葬の地「三三昧」を開いたと記しています。どこだろう。
>
伝染病が蔓延したり、ひとたび大災害や飢饉が起こると、埋葬しきれない死体がいたるところにできると思います。「風葬の地」とは体の良い死体置場のようなものだったかも知れません。それは多人数一括送葬の場で、カラスや野犬が魂の抜け殻となった肉を喰らい、彼らの命を繋ぐ糧となったことでしょう。
死体を一箇所に集積する労力を考えると、風葬の地はかなり集落に近い野辺、それも水辺に近い所だったのではないでしょうか。高野山の麓なら慈尊院に近い紀ノ川の河岸あたりではなかったかと勝手な想像をしています。
また一方では、もう少し山手に上がった山麓の人里離れた山中で、一人一人その都度、厳粛な「風葬の儀」が営まれて野辺に送り出された可能性もありますが、その対象はある程度社会的に地位が上位の人に限られたのではないでしょうか。

実は私は、死んだら水葬にしてもらいたいと密かに思っています。
抜け殻は海に流されると魚たちに喰いちぎられ、海底の藻屑となり、微生物を湧かして小魚の餌になる。
それを大きな魚が食べる。死んだ後もこんな風にでも役に立てば嬉しいと思います。
今まででも何万匹の魚を食させてもらったことか・・・(チリメンジャコが大好きなので)・・・。

●以下は宮沢賢治詩集「疾中」より、

われやがて死なん
今日又は明日
あたらしくまたわれとは何かを考へる
われとは畢竟法則(自然的規約)の外の何でもない
   からだは骨や血や肉や
   それらは結局さまざまの分子で
   幾十種かの原子の結合
   原子は結局真空の一体
   外界もまたしかり
われわが身と外界とをしかく感じ
それらの物質諸種に働く
その法則をわれと云ふ
われ死して真空に帰するや
ふたたびわれを感ずるや
ともにそこにあるのは一の法則(因縁)のみ
その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり
・・・後略

やはり宮沢賢治は法華経の行者ですね。 


[311] 三三昧 投稿者:神奈備 投稿日:2004/09/16(Thu)
ウイルスの本質は「空」、いや「食う」か。

『宗教民族講義』五来重著 「風葬された霊が山の神となり、水葬された霊が海の神となる。日本の民俗学ではこのように神観念が説明することができる。」とありました。

死者の霊の浄化されたものは日本の神観念の一部だとは思いますが、これで説明できると云うのには納得しかねる所。

氏はつづいて、高野山の麓に風葬の地「三三昧」を開いたと記しています。どこだろう。


「三三昧」http://www.evam.com/evam2/book/bdk/term.html

[310] トロイの木馬 投稿者:やさか 投稿日:2004/09/15(Wed)
悪辣な奴め!アプリケーションの追加と削除の項目には姿なし。
「msconfig」コマンドでチェックを外しても、すぐに復活しやがる。
それではと、フォーマットしてリカバリーを選択。OSもアプリも全て入れ替えた。
これですっかり退治できたと思っていたら、
休んでいるはずのPC、本体のランプが時々点滅しているではないか。
アプリケーションは全て終了させているのに、電源が入っていると、
密かに裏で、わるさをしている。
それでいつも、二つのプログラムが動いているようになって、
メモリーが不足し、システムはすぐにビジー状態になって動かないのだな。

有用なソフトと見せかけて、巧みに潜入した憎い奴。
すべて大掃除して追い出したと思っていたら、
Dドライブに逃げ込んで、潜伏していたようだ。

よし今度こそ!
次はCもDも、何もかも出荷状態にリカバリーしてやった。
どうだ、今度はまいったか。
天誅!今度は完全に息の根を止めてやったぞ。


オレはふっと考えた。
ひょっとしたら生体のウイルスも同じようなものかも知れないぞ。
病気を起こすウイルスも電磁的なものではないか?
つまり病気とは、電磁的な、あるいは電磁的なプログラムの変調なのだ。
オレは勝手に思案して独り言を言い、くしゃみした。

[309] PC故障? 投稿者:マルヤ 投稿日:2004/07/12(Mon)
また当方PCが不調です。
ハードの方は大丈夫のようですが、悪辣なウイルスが住み付いたようで困っています。簡単には削除もできそうにありません。
それで大掃除をしたいと思いますので、掲示板の返信やメール等、欠礼がありましたらおゆるしください。

[308] Re[307]: Re[306]: Re[305]: あしたばの天麩羅 投稿者:マルヤ 投稿日:2004/06/16(Wed)
> 蛍祭り。
> http://www5e.biglobe.ne.jp/~hakuyou/event.html

どうもありがとうございます。

[307] Re[306]: Re[305]: あしたばの天麩羅 投稿者:神奈備 投稿日:2004/06/16(Wed) 08:24
> 森全体が動くなんて凄いですね。地上の巨大な流星群って感じでしょうか。私も来年行って見たいと思います。

蛍祭り。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hakuyou/event.html

[306] Re[305]: あしたばの天麩羅 投稿者:マルヤ 投稿日:2004/06/15(Tue)
> 青山町でほたる祭りに行きました。
> 幅100m、高さ30mの森全体がホタルになるんです。生まれて初めてホタルの巨大集団に出会いました。ホタルが一斉に点滅するのではなく、波を打つように漆黒の闇を鋭い光が動いていくのです。感動いたしました。
> この青山町の種生ではあしたばが雑草の如くはえています。天麩羅で頂きました。美味でした。

神奈備さん、こんにちは。
青山町といえば三重県でしょうか。
“ホタル”それは感動的な情景だったことでしょうね。
森全体が動くなんて凄いですね。地上の巨大な流星群って感じでしょうか。私も来年行って見たいと思います。
野生のホタルは、もう40年以上も見ていません。
もうノスタルジーの世界ですが、子供の頃、谷川周辺の田んぼ道で、みんなでホタルを追ったことを思い出します。
残念ながら集団の移動は見たことはありませんが、辺り一面ホタルの乱舞でした。
その幻想的な光景が今でもはっきりと目に浮かびます。
今、古里からホタルの便りは聞きませんが、谷川の水は細り、カワニナも棲息できなくなって、もう昔のような光景は見られないかも知れません。

通販で買った「あしたば」の苗は、今、庭で大きく育っています。
若葉を摘んで今夜にでも早速天ぷらにしてもらって、ビールを飲もうと思いつきました。ありがとうございます。

●故障したPC、一部を除きなんとか復旧させましたが、HPの更新は怠けています。

[305] あしたばの天麩羅 投稿者:神奈備 投稿日:2004/06/14(Mon)
青山町でほたる祭りに行きました。
幅100m、高さ30mの森全体がホタルになるんです。生まれて初めてホタルの巨大集団に出会いました。ホタルが一斉に点滅するのではなく、波を打つように漆黒の闇を鋭い光が動いていくのです。感動いたしました。
この青山町の種生ではあしたばが雑草の如くはえています。天麩羅で頂きました。美味でした。

[304] やっぱり、 一休さん 投稿者:マルヤ 投稿日:2004/05/05(Wed)
やっぱり故障してしまいました。
メーカー引き取り現在修理中なので、外部より書き込みました。
一休み、ひとやすみ。


[303] 一休さん? 投稿者:マルヤ 投稿日:2004/04/30(Fri) 13:15
またまた当方PCが、原因不明の不調となりました。
それで応答出来なくなるかも知れません。
メールも同様ですので、その際の失礼はお許しください。

[302] Re[301]: リンクしました 投稿者:マルヤ 投稿日:2004/04/25(Sun)
大三元さん、こんにちは。
その節はありがとうございました。
ご無沙汰いたしておりますが、神奈備さんの掲示板で、御説はいつも拝読しています。
リンクありがとうございました。当方も張らせていただきます。
今後ともよろしくお願い致します。

[301] リンクしました 投稿者:大三元 投稿日:2004/04/24(Sat)
マルヤさん、ども。
その節以来ご無沙汰してます(ってのは普遍的に正しい・・・)
先ほどリンク見直していて、まだだったので、追加しておきました。よろしく。

http://www.dai3gen.net/link.htm