新ブロック [20] :2014年1月~2014年06月まで


夏の吉野山

投稿者:やさか  投稿日:2014年 6月30日(月)

  吉野山へ、いつもの番茶を買いに行きました。
そして、金峰山寺・天満神社、井光神社、櫻本坊・辨財天社にも参拝しました。
下千本・七曲坂では「あじさいまつり」が開催されていました。
6月14日(土)~7月7日(月)までとかで、今が丁度見頃のようです。
昼ご飯は西澤屋さんで戴くことが多いのです。
本日は、天ぷらうどん定食(柿の葉寿司二個、デザート付)に、鮎の塩焼きを追加していただきました。
●写真はその西澤屋さんの鮎の塩焼きと七曲坂の紫陽花です



最新の映画(続)

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 6月19日(木)
  映画『ポンペイ』を見ました。
ポンペイの悲劇は、現代まで伝わっていて誰でも知っている通りです。
映画では、ケルト人の剣闘士マイロと、ポンペイ市民で富商の娘カッシアの恋を絡めています。
この映画の見どころは、手に汗握るコロシアムでの剣闘士の死闘場面、ヴェスヴィオ火山の噴火と市民が逃げまどう場面などです。
いずれもCG技術の応用でしょうが、臨場感は真に迫っています。
驚くべきはポンペイ市内から見えるヴェスヴィオ火山の姿です。映画では富士山そっくりに見えます。
日本人なら、まず富士山の大噴火を連想してしまうでしょう。
何故、今、ポンペイの悲劇映画なのでしょう?
近未来の日本に起こる大災害を暗示しているようで心配です。

ついては、前にもこの掲示板に書きましたが、夏になると私は次の歌が大変気になります。
それは平成9(1997)年11月のある日のことでした。
「異常現象によるあらゆる災害は、世界に先がけて日本に現われるだろう」そして又
「富士山がすべり、高さも半分になるようなことが近年起こる」
…と山内光雲師は言い、不思議な声音と、信じられないほどの圧倒的な声量で次の歌を謡ったのでした。
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ツタンヤ ツタンヤ ツタン ヤヤヤヤ ヤオー
オオオオオオオー

七つの星が北に起こり 七つの星が八つになるときに
地が揺れまわり 地が揺れ海持ち上がって 山越えるとき
大和の国に大いなる船 空より降りて
助くる日そこにあれば山すべて動き
汚れたる大地を をーーーーーー オーーー
清める波来て 山をむしり 崖を落とし 地の底にーー
悪しき土塊(つちくれ)を その割れたる赤き土の火の間に投げ込む
海狂うて叫び 風鳴いて走り 夏の空に火の花を咲かすとき
冨士山(ふじやま)動き その日がその周りの町 全て海の底に入るとき
神 初めて雲に乗りて降りてくる その時もはや
悪しき魂の人皆 消えて消えて消えて消えて消えて 収まる地

地こそ神の降り来る清らかな地になれば 二度と汚すこと許されじ
山に登れ 苦しき人よ手あげて船に乗れば
愛しき男 優しき女 賢き子供たち 全て五億の数に有れば
うれしい嬉しの国 その新しき国そのままの 形ある国に連れられて
良き思い 清らかな魂と 健やかなる身体仕上げて
神の国に降りる日 神様と共に働きを待つ

日暮れて 暗き闇有れば 星七つ空に舞いて 舞い舞いて散る
闇の夜 無くばよし 昼の昼の時の続く新しき地の上の
神の国こそ此の地に現れる日近し

うれしやな 大和に平和また再び来たれば
桜 桜 桜の花が咲き
白き衣(きぬ) 全ての傷跡に覆いたれば嬉しい
ヤン ヤン ヤン  ヤヤヤヤヤン ヤン
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この歌は、山内光雲師をして「神が私の声帯を使って預言した」と語りました。
師によれば、「曲が聞こえ、勝手に口が動き、歌いだす感じ」と言いました。
そして“歌は予言”と言い、それは、たいてい韻律を伴って伝えられるというのです。
光雲師が霊視した第一次の災害とは、富士山の大噴火と崩落のようです。
その時、大量の土砂が一気に斜面を駆け下り、田畑や民家、建物や車両など全てを駿河湾、相模湾まで押し流すそうです。
東海道新幹線、東名高速道路が分断され、日本の首都機能は麻痺しそうです。
もし、このようなことが現実に起これば、日本の損害は天文学的な数字になることは間違いないでしょう。
あの美しい富士は見る影も無く、高さも半分になるといいます。

まさか?この夏ではありますまいが………。来年の夏かも知れない。
このような大災害が起こることの無いよう今は祈るばかりです。

最新の人気映画

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 6月15日(日)
  『ノア 約束の舟』を見に行きました。
同行した家内は「それは見たいとは思わない。『春を背負って』の方を見たい」言い、別のスクリーン室に入りました。

養老孟司博士は、朝日新聞の特集記事でこの映画を絶賛していましたが、『ノア』を見た私は、ひとことで言えば期待ハズレでした。
アロノフスキー監督は、「今まで作られてきた映画の中でこの映画は非聖書的なものの中で最も非聖書的である」と言っているようですが、
私には、聖書思想をそのまま反映させた映画に見えます。
「期待ハズレ」と書きましたが、ユダヤ教やキリスト教を信奉する人たちが映画をつくれば、このような映画になるのは当たり前とも言えます。

でも、ノアの家族以外は「方舟」には乗せないという、一神教に特有の選民思想的ストーリーに違和感がありました。
助かりたいと舟に押し寄せる大勢の民衆を、一人も乗せようとせず排斥し、殺しまくるというのはあまりにも無惨に感じます。
彼らのいう正義とは、正義を標榜する自分たちの行為に抵抗するものたちを根絶やしにすることが正義だと言いたいようです。
この映画は、やはり一神教独特の選民思想を肯定しているとしか感じようがありませんでした。
多神教の信者が大多数の日本人には、このような排他的な考え方は中々なじめないでしょう。
また、多神教の信奉者が多い東洋人全般の思想とも、相容れないところがあると思います。
文明が進み、多くの時間を経てその先、もし文明の衝突というのがあるとすれば、東西文明の衝突でしょうか。
言葉を代えて言うなら、それは、[多神教]対[一神教] の対決かも知れません。

さて、ここでも余談です。
配役はまったく気にせず見にいったのですが、主役のノア役は、あの剣闘士『グラディエーター』のラッセル・クロウでした。

アメリカの人気TVドラマ

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 6月14日(土)
  『ブラザーズ&シスターズ』全109話をすべて見ました。
米国ABC制作の『Brothers and Sisters』は、2006年秋から2011年の春までに放送されたものだそうです。
最終の「シーズン5」が昨年末頃にDVD化されたようで、先日TSUTAYAから借りてきました。
見たのは日本語字幕版で、すべてレンタルCDですが、終了まで足かけ二年がかりでした。
私が洋画を見る場合は、全て原語版日本語字幕で観ます。吹き替え版より臨場感が良いと思うからです。

このドラマは、ロサンゼルスに住むユダヤ系、中流上の家庭がモデルのようで、題名のように兄弟・姉妹が登場します。
配役はそれぞれ魅力的なタレントばかりで、中でも長女サラ役のレイチェル・グリフィスに私は魅了されました。
ウォーカー家五人姉弟の母ノラ役のサリー・フィールド、前述のレイチェル・グリフィス、次女キティ役のキャリスタ・フロックハートの演技は特筆ものです。
彼女たちの歯切れの良い、機関銃弾ように次々と繰り出す言葉の応酬は、正に圧巻と言えるでしょう。

内容的には、婚外交友、異人種交友、同性婚、支持政党、職業意識、家族愛など、現代アメリカ社会が抱える様々な問題が次々と展開されます。
ドラマは大変面白く、次々と次作が見たくなるほどですが、あまりにも美しく描かれすぎているので不自然に思うところもありました。
それは、登場人物のすべてが、あまりにも偏見の少ない人物ばかりで構成されていて、私は実際の現代アメリカとは、かなり違うのではないかという疑問を持ったからです。
でも、大変面白く素晴らしい家庭ドラマであることは間違いないと思います。
なお余談ですが、主役の一人、ウォーカー家の母親ノラの愛車は、全作を通してトヨタのプリウスでした。

昭和中頃の小説(続)

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 5月23日(金)
  黒岩重吾は、学徒動員されて北満に渡り、終戦帰国後は闇市でブローカーをするなど様々な世界を覗いてきたようです。
昭和30年頃は、西成の飛田遊郭界隈のドヤ街で暮したようで、その頃の経験に基づいた話が、
いわゆる「西成もの」といわれる多くの短編になっています。
昭和58年刊行の『黒岩重吾全集 第23巻』には、昭和36年に書かれた『飛田ホテル』から昭和55年の『飛田残月』まで、
飛田界隈を舞台にした14編もの作品が収載されています。
いずれも「売春防止法」が施行される前後の西成区の話で、
当時の遊郭周辺に暮す人々の哀歓や愛憎がノンフィクション風に綴られています。
昭和32年頃は、南区笠屋町のナイトクラブの宣伝部員として住み込みで暮らし、
その頃から本格的に小説を書き始めたと思われます。
それまでは「街角に立ってカード占いをしたり、夕刊紙やラジオ小説、雑誌読物に投稿して食っていた」
というようなことが、短編『過ぎ去りし街よ』に書かれています。
長編『背徳のメス』は阿倍野の病院が舞台で、この作品は昭和35年に直木賞を受賞し、それ以降は執筆依頼が殺到したそうです。
昭和36年位からは堺市上野芝の高級住宅地に住んでいました。
ちなみに、大阪ミナミで多くのクラブを経営していた社長の話が、短編『川面の顔』に出ていますが、
この社長は昔から上野芝に住んでいたので、或いは黒岩重吾とその後も交流があったのかも知れません。

●写真上は、動物園前本通(旧・飛田本通商店街)前。 向こうにアベノ・ハルカスが見え、写真の手前右側が本通入口になっている。
●写真中は、界隈の商店街
●写真下は、旧飛田遊郭の中心地あたり
○撮影:カメラ/Nikon S2/NIKKOR-SC.5cm F1.4(昭和33年製)
フィルム/KODAK GOLD100

昭和中頃の小説

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 5月16日(金)
  最近、昭和の小説を乱読しています。
私が好きな以下四人の小説家の作品については、今まで読んでいない作品を片っ端から読んでみました。
それぞれの作家の作品で、面白かったのは以下の通りでした。

●松本清張の『或る「小倉日記」伝』、『黒革の手帳』
●黒岩重吾の『休日の断崖』、『飛田ホテル』
●梶山季之の『族譜』、『李朝残影』
●宮尾登美子の『櫂』、『序の舞』等々です。

これらの小説は文句なしに面白く、どれも一気に読了してしまいましたが、
中でも特に夢中で読み進めたのが宮尾登美子の小説でした。
『櫂』は、高知の遊郭で芸妓紹介業を営んでいた作者の生家をモデルにしたといわれる小説です。
これは、『春燈』・『朱夏』・『岩吾覚書』と続く四部作になっていて、時代と風俗が良く描写され、とても興味深く読まされてしまいました。

小説『序の舞』は、明治時代の女流・日本画家、上村松園作「序の舞」から採ったタイトルで、松園の生涯がモデルになっています。
これは本当に凄い小説でした。男性主流の日本画壇で壮絶に生きる主人公の姿は、圧倒的な迫力で読み手に迫ってきます。
画家松園の生き様は作家宮尾登美子の生き方と一部共通するところがあるように思われます。

●写真は上村松園作「焔」/東京国立博物館


Re: 今日の電話でよみました

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 5月13日(火)21時28分33秒
 
> 今年2月からの様子よましてもらいました。よーく理解できました。貴兄の対処のしかたに心うごかされ、元気になられること切にねがってます。これからも掲示板をまめにみるようにします。

今日は見舞いの電話ありがとうございました。
今は定期的に検診に行っています。
かなり体調は良くはなっているのですが、
昔のようにバイク遊びをしたり、夜遊びができるほど元気ではありません。
でも、神社巡りはしていますので、また一緒に行きましょう。
機会をみてお誘いします。

今日の電話でよみました

 投稿者:しまなみ  投稿日:2014年 5月13日(火)
  今年2月からの様子よましてもらいました。よーく理解できました。貴兄の対処のしかたに心うごかされ、元気になられること切にねがってます。これからも掲示板をまめにみるようにします。

住吉神社

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 4月 7日(月)22時09分14秒
  南大阪のソメイヨシノは、満開を過ぎて散り初めましたが、
ここ小山田・住吉神社の桜は今日が満開のようでした。
この神社の祭神も、もちろん住吉三神と桜の花の君、神功皇后(オキナガタラシヒメ)です。

住吉大社と神功皇后

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 4月 3日(木)
  昨日、すみよっさんにお詣りしました。
大阪の人は住吉大社のことを、親しみを込めて“すみよっさん”と言い慣わしてきたようです。
住吉大社の社報も「すみよっさん」と題されています
境内の桜は昨日満開になっていました。

桜といえば吉野ですが、私は吉野と共に「桜の花の君」オキナガタラシヒメを連想します。
ご存知の通り、住吉大社第四宮の祭神は神功皇后です。
第一から第四宮まで参拝の後、境内の満開の桜見ながら、『御所市史』に、
御所市蛇穴字京垣内の地に、神功皇后の磐余若桜宮があったという記述があったことを思い出しました。
それで、帰宅してから『日本書紀』を見直しました。

『日本書紀』には、以下のように記されていました。
「三年春正月丙戌朔戊子。立譽田別皇子。爲皇太子。因以都於磐余。是謂若櫻宮。」とあり意訳しますと、
神功皇后三年春正月三日に誉田別皇子を皇太子に立て、磐余に都を造った。これを若桜宮という …
やはり桜と神功皇后は大いに関係があるようです。

●写真は4月2日撮影した、住吉大社境内の桜と太鼓橋


讃岐富士

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 3月23日(日)
  金比羅さんに参詣してきました。
1枚目の写真は、金比羅宮拝殿前広場からの展望です。中央に讃岐富士が見えます。
2枚目の写真は、どこまでも上に続く参道。左右に土産物店が立ち並びます。
2代目広沢虎造の浪曲「石松金比羅代参」を思い出しました。
3枚目の写真は、参詣をすませての帰り道、土産物店軒先で見た「讃岐のノラにゃん」です。
「朝夕の1日2回 “お腹空いたニャー”と店に入ってくるんですよ」
店のおばさんが言います。
「うちでもネコを飼っているので、餌のとき以外は遠慮して外で過ごしているようです。毎晩どこで寝ているのか、聞いても返事がありません」
おばさんは目を細めて、ひなたぼっこをしているネコを見遣りました。






久しぶりの短編

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 3月20日(木)
  久しぶりに短編を掲出しました。
よろしければ読んでみてください。
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/seisyun.html

●写真は昭和30年代に最強・最速だったトーハツのゼロハンバイク
 TOHATSU RUNPET /HONDA Collection Hall



吉野宮の謎6 宮瀧≠吉野宮

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 3月11日(火)
  大阪狭山市の市立図書館へ行ってきました。
ご存知橿考研初代所長、故末永雅雄氏は大阪狭山市の出身なので、末永博士の著作・論文がすべて揃っていると聞いたからです。

多数の著作の内、『増補 宮瀧の遺跡』末永雅雄著/昭和61年8月20日発行をつぶさに読み進めました。
同書は、厚さが5センチもあろうかという大部の報告書ですが、その大部分は土器の遺物写真や図版です。
期待していた宮瀧の遺跡と吉野宮(離宮)に関わる記事は驚くほどに少ないものでした。
それでも、―宮滝遺跡遺構編ー(第44次調査)―――の記事中に
弥生人の墓である「方形周溝墓」や「土器棺墓」の遺構があったと記されていることを見付けました。
そこには「七基の方形周溝墓と土壙墓そしていくつかの木棺墓の痕跡を検出した」と記されていました。
また、それが古代人の住宅に近接していたというようにあり、人骨片も出ているともあります。

この記事から判断しても、やはり、宮瀧は吉野宮(離宮)跡ではないと確信しました。
古代人の生活跡や墓地のような穢れは忌み嫌われて、
そのような場所には、決して宮柱は立てないはずだからです。

末永・前園学統からはじまった吉野宮=宮瀧説は、何時の間にか綿密な検証無しで一人歩きしたようです。




“のらにゃん”(続)

 投稿者やさか  投稿日:2014年 3月10日(月)

  続いてもう一枚。

 

“のらにゃん”

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 3月10日(月)
  出会った野良猫を時々撮影しています。
写真は南河内の“のらにゃん”


 

「吉野歴史資料館」の展示説明に疑問

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 2月23日(日)
  吉野町HP「吉野歴史資料館」の[展示のみどころ]の記事に疑問がある。
http://www.town.yoshino.nara.jp/about/shisetsu/dentou/midokoro-shiryokan.html

この記事のなかで、「吉野宮の成り立ちと移り変わり」の項に、
「…飛鳥時代に入ると宮滝には吉野宮が造営されました」
「…奈良時代には吉野宮の西側に吉野離宮が造営されました」
…というような記述がされているが、このような表現は如何なものかと思う。
どうしてそのようなことが言えるだろうか。
あの発掘の成果からは、宮滝に吉野宮があったとは言えないと思う。大いに疑問が残る。

壬申の乱前、即位前の大海人皇子が立てこもり挙兵した吉野宮と、
乱後持統天皇が繁く通った吉野宮は、その性格も所在地も違ったはずである。
前者は、いざとなれば堅固な城塞に代わる山頂の神社ではなかったか。
後者は、壬申の乱後、平地に建設された天皇の別荘的な離宮だったと見る。
つまり、「吉野宮」と「吉野離宮」まったく別の目的を持つ施設だったので、
同じ場所にあったとは考えられない。
他にも様々な理由から、吉野宮=宮滝は有り得ないと思う。

●以下よろしければご覧ください。

「吉野宮は何処にあったか?」
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/yosinomiyanazo.html

「吉野宮」
http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/yosinonomiya.html
 

健康と病気(番外)

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 2月12日(水)
  ●一番の良薬は「水」

水はなんと言っても一番の良薬かと思います・
実際、水は浄化・洗浄力が一番でしょう。
通常身体に進入した毒素は、一般的な生理作用、つまり発汗や排尿、排便と共に外部に排泄されます。
それでも通常に排泄できない場合、咳による痰や嘔吐、下痢などの症状に出て排泄作用が促されていると考えられるのです。
そして、これらの生理作用は、ほとんど水を仲立ちとしています。

風邪などの?症状も、生体に本来的に備わった自浄作用かも知れません。
人体(生体)は、実に精妙に出来ていて、外部から毒素・毒物が侵入してくると免疫が働いて、それらを排除しようとします。
善玉のリンパ液が動員されて悪玉の敵を殺します。部分的な局地戦に敗れても、強力なリンパ節が城壁を築いて防御しています。
ところが悪性腫瘍(癌)などは、遺伝子の変調から異常に細胞が増殖し、周辺の臓器に浸潤或いは転移して、宿主の生命体(人間)を脅かします。
そのような場合、生体は全能力を総動員させて対抗しようとします。
つまり、生命の危機を察知して自然治癒力が総発動されるものと考えられます。

このような時、抗生物質(抗生剤、抗がん剤)を投与したり放射線を用いると、生命が全力で構築しようとしている防衛線を台無しにします。
外科手術も一時しのぎに過ぎず、かえって大きなダメージを与えるだけの結果になることでしょう。
何度も言うように、癌は遺伝子の病気なので手術は有効な手段ではありません。
それより自然治癒力に委ねる方が、はるかに好結果を得ることになると考えます。

ストレスが一番の大敵だと思います。
このような時、できるだけ心身をリラックスさせ、まず休養をとるのです。
入院したものと考え、仕事は思い切って辞めてください。

●抗生物質(抗がん剤)は摂らない。
●手術はできるだけしない。
●勿論、放射線の投与も避ける。
●毎日美しい水を多く飲む。
●手当て(前述)
●人参を毎日摂取する
あとは、心を平安に保ち、自分自身の免疫による自然治癒力を信じることです。


 

健康と病気(終) 6、現代医療のパラドックス

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 2月 7日(金)
  医療のパラドクスは数多くありますが、まず、その第一番は、
医学はめざましく進歩していると言われていますが、一方でますます病気が増えていることです。
「病気」とは、誰かが「病気だ」と言った時から始まるものだと言えます。
言葉を変えれば、ある状態を見つけて病名をつけて、病気だと言い出すことで、
どんどん病気が増えていくものだと思われます。
たとえば、結婚状態の男女が二年以上経っても子供ができないと「不妊症」とされます。
また、血糖値が高いとして「糖尿病」という病名をつけます。
医学が進歩(見せかけだけの)すると、早期発見だとして発症していないものでも病気にされてしまう。
そして、医療という治療行為で、病気が起こったり、ひどくなったりするのです。
必要のない手術をしたり、無用の投薬や放射線などの副作用で身体が傷つけられています。
医療が不健康を促進していることがどれだけ多いことでしょう。

受けなくてよい検査や無用の治療行為で、どれだけ健康を損ね、医療費を無駄遣いしていることか。
また病院では高額な医療設備機器の償却のため、設備をできるだけ稼動させようとしています。
これでは早晩、健康保険のシステムが崩壊することは目に見えています。
これは、病院経営者の意向に沿える医師が出世できる恐ろしい背景があるからでしょう。

考えてみてください!
【病院で生まれ、病院で死んでいく】
よく考えると、こんな殺伐とした風景は恐ろしいかぎりです。
病気で無いのに病院に入って子供を生み、老いては病名を付けられ病院に入れられて寂しく死んで逝く。
どこか間違っていませんか。
これらすべて、西欧医学がその方向を誤ったせいだと思われるのです。
(やさか掲示板・過去ログより、抜粋)


 

健康と病気 5、癌とは

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 2月 6日(木)
  癌(がん、ガン)とは、一言で言えば「不死細胞」のことだそうですが、次のアドレスに分かりやすく説明されています。http://www.kkyhymr.net/02/post_5.html

一部を引用しますと、
「人体を構成する細胞は順次古い細胞から新しい細胞へと入れ替わっています。新しい細胞は遺伝子のプログラムに従ってつくられていきますが中には定められたプログラムに従わずに勝手に増殖してしまうものがあります。古い細胞は壊れていくので新しい細胞がつくられなければなりませんが、そのための増殖が必要以上に行われると余分な細胞はかたまりを形成します。それががんです。」…以下略。

また私は以前、この掲示板で以下のように発言したことがありました。

【過去ログ?317】投稿日2004/9/24 以下に再掲しますのでお読みください。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
現代医学のがん治療の方法は、次の三つだそうです。
1.外科的手術によるもの
2.抗癌剤の投与
3.放射線照射
これが癌治療の三大療法として現在医療機関で行われている中心的治療法だそうですが、
これで癌は治るのでしょうか。

否、殆ど治らないものと思わなければなりません。
?早期発見・早期手術により治るといわれるが、ほとんど転移したり、再発しているようである。
?抗癌剤には深刻な副作用があり、その効果も一時的に増殖を抑える程度である。(新薬イレッサの副作用で大勢の人が死んでいる)
?放射線は局所への抑制治療なので転移している場合などは無効。また抗癌剤ほどではないが、やはり大きな副作用がある。

以上のように治療効果はあまり期待できません。なぜでしょうか。
最近の研究によれば、癌は遺伝子の異常による遺伝子の病気だそうです。
ですから癌が発生した臓器の部分を、いくら切っても削っても癌は身体のどこかから発病すると思わなければなりません。
それは癌ウイルス(遺伝子に異常を起こさせるウイルス)が血流に乗って身体のどこへでも出張し、弱いところがあれば発生増殖すると考えられるからです。
今まで早期発見・早期手術で切除し、治ったといわれるケースは、そのままでも治る性質の単なる腫瘍であったと思われます。

では、どうすれば癌を完治させられるのでしょうか。考えられるのは身体中の血液全てを完全に入れ替えることが出来れば癌は治せると考えられますが、それは不可能と言わねばなりません。

病院で癌という診断をされると、治療効果の少なく副作用の多い様々な医療を施され、身体は傷つき苦痛で苛まれ、結局命を縮めてしまう。そんな入院生活を送っている人たちが大勢います。
では、どうすれば良いのでしょう。

まず病院から逃げ出すことです。
そして何故病気になったか、まず考えるのです。
職場環境、家庭環境、食事…何か思い当たることはありませんか?
食事内容も大事ですが、ストレス(心痛)これが一番心身のバランスを崩します。考えてみてください。

さて、癌遺伝子(癌ウイルス?)について考えてみます。
癌ウイルスは健康な人にも常駐していると考えられます。両親から遺伝的に誰もが受け継いでいるのです。
ですが健康な人は癌遺伝子の活性化を抑える、抑制機能が働いていてバランスを保っています。
この均衡が崩れると発病するのです。
でも通常は発病しても、抑制機能が更に強力に働いて発病を抑止してしまいます。
そのような訳で、実は私たちの身体は、(初期の)癌になったり治ったりしているのです。このバランス機能が崩れたときに増殖し癌細胞といわれるように肥大化します。これが今「癌」と呼ばれている病気なのです。

 

健康と病気 4、手当て

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 2月 6日(木)
  退院して自宅に帰ると、また独自の治療法を再開した。
毎日美しい水をたっぷり飲み、「手当て」をする。人参を食べることも欠かさない。
不思議なことに咳があまり出ないようになった。
検査後は赤黒い痰ではなく、出血があるのかと思うほど鮮やかな赤色だった。
はじめは心配だったが徐々に収まり、血痰はほとんど出なくなった。
それと共に咳もでないようになってきた。

昔から病気やケガの治療をすることを「手当て」と言うが、
(治療=手当)と言えるほど患部に手を当てることは治療に有効だと思われる。
このことによって免疫力が高まるのではないだろうか。
退院1週間後くらいを境にして、次第に体調が良くなっていると感じた。
鉛を背負っているように重苦しかった背中が軽くなっていくようだった。

気管支鏡検査後10日が経って結果診断を聞くため早朝から病院に行った。
いつも診断日は、まず先にレントゲン撮影を済ませてから担当医の診断にのぞむ。
それまでには既に先日の検査結果が詳細に出ているはずだった。
面談時間が来て担当医と顔を合わすと、担当医師は笑顔で言ってくれた。
「マルヤさん!いい結果が出ていますよ。不思議なくらい改善されているのです」
担当医師は手元のPC画面に今朝撮影したばかり胸部影像を示して言った。
そして手に持った書類を私に渡して話を続けた。
その書類というのは先日の検査に基づいた分析資料だった。その検査報告書は5枚あった。
「病理細胞診断報告書」「病理組織診断報告書」「気管支報告書」「一般細菌検査書」等々。
それらの報告書のあらましを説明してから医師が言った。
「『器質化肺炎』か『肺癌』と思っていたのですが、採取した細胞の分析結果を見ると器質化肺炎ではなく、『間質性肺炎』ではないかと診断します」
そして続けて言うには、驚くことに今朝撮影したこの影像では、前回写っていた左肺の大きい方の影が殆ど消え、癌ではないかと特に気なっていた小さい方の、異常な影像が半分以下になっている。これから診ると、経過をもう少し観察しないと断言はでないが、癌ではないだろう、間質性肺炎の方もしばらく様子を観たいと、1ヶ月後に再診となった。
――――――――
1ヶ月後の再診でも症状は進んではおらず、更に小さくなったように見受けられた。
それで次の診察は2ヶ月後に決まった。

これで一応、癌の魔手からは逃れたような気はする。でも疑問は残る。
あの尿管結石と同様の耐え難い痛みは何だったのだろう?
泌尿器科では尿管結石ではないと診断したが、レントゲンに写らない結石もあるとも聞く。
呼吸器科の医師は、癌が胸膜に浸潤している痛みだろうと診て、初め肺癌を疑った。
肺癌を疑った異常な影は、今は不思議にもレントゲン影像では縮小してしまっている。
さし当たっての危機は去ったように見える。

●写真は、今日午前の金剛・葛木山系。どうやら雪の気配。


 

健康と病気 3、検査入院

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 2月 5日(水)
  私が検査入院に同意しなかったので医師は
「では2週間に限って様子を見ましょう。それで改めて撮影検査して病状が進んでいるようだと直ぐに気管支鏡検査をし、治療方針を決めましょう」と譲歩してくれた。
私は「癌を患っても病院の治療は受けないぞ」と決めていたので、検査結果がどのように出ようと同じだった。
たとえ「肺癌」と診断結果が出たとしても、手術をする気にはならないし、放射線治療も、抗癌剤治療も受ける気が全くないから同じなのだ。
検査はあくまでも診断するための手段だけであって治療ではない。
ではどうするのか。
昔から私は「癌になれば、これは天命だ。運命に委ねるしかない」と考えていた。
だが、癌による死は痛みがひどく大変な苦痛がともなうものと聞いている。
それでモルヒネでもいいから、できるだけ強力な鎮痛薬を処方してもらい、痛みはできるだけ和らげて死を迎えようと思っていた。
すなおに死を受け入れようと考えていたのだ。それで、薬をもらうため、医師との関係を良好に保っておく必要がある。
そのためにも医師の意見や治療方針はできるだけ尊重しなければいけない。

現代医学(医療)は、癌に対しては全くと言っていいほど無力であると思う。
癌は外部から伝染してきたのではない。自分自身の体内で発生したものである。
手術によって切ろうと削ろうと、発症源は血流に乗ってどこへでも出張する。
そして弱い箇所があれば又そこから発症すると考えられる。
抗癌剤や放射線治療もほとんど効果はなく、むしろ自然治癒力を阻害して病状は逆に進行すると考えられる。
では「癌」と診断が下れば、死を宣告されたのと同じなのか。
いやそうではない。初期ならば免疫による自然治癒力に期待できるはずである。

現代医学は、癌に対して有効な治療法を開発していないが、レントゲン写真撮影やCT撮影によって、病症の現状は写真影像として視覚的にはっきりと把握できる。
まず自分自身の、病気の症状をよく知る必要があるので、この意味においては最新の検査機器の助けを借りるのが得策である。

様子をみるための2週間が過ぎて、再検査を受けに行った。
担当医師は、その日撮影したばかりの影像を手元のPC画面で私に見せながら
「今回もはっきりと写っています。癌かも知れないので手遅れにならないうちに気管支鏡検査をして細胞を採取し、正しく対処するべきです」
医師は続けて言った。
「影像では、ほぼ前回通りの大きさですが症状は進んでいるとみます。この現状で気管支鏡検査をしなければ私は医師として失格ですよ」
今回ばかりは譲れないとばかり、家族のことを聞き、明日奥さんと娘さんを連れて一緒に来てください。癌ではなく細菌性肺炎か器質化肺炎とも考えられるので、検査して癌でないことが判れば安心できますよとも言った。
明くる日、妻を連れて病院に行き、医師の指示に従って、結果的に気管支鏡検査をしてもらおうと決心し妻と連名で同意書に捺印した。

その三日後の検査当日、早朝一人で病院に行き入院。午後からの検査を待つ。
気管支鏡を挿入・操作する際、痛みを感じる方が安全なので全身麻酔はしない方がよいでしょうと医師から話があり、
その通りだろうと思ったので事前に同意していた。
30分位で終わる予定という検査がはじまった。
麻酔薬を噴霧しながら気管に内視鏡を入れていく。主医師と助手、看護師二人の四人掛りである。
目隠しはされているが、局所麻酔なので施術者たちの声がはっきり聞こえてくる。
予想はできたが、実際は想像していた以上に大変な苦痛を強いられる検査だった。
細い気管に、カメラと鉗子を内蔵した管を通し、内部を目視・撮影して奥の肺胞の病変部組織を採取。また生理食塩水を注入して洗浄し、回収するともいう。
細い気管に管を通しているので、僅かな隙間で呼吸しなければならない。
鼻から酸素を補給して補っているようだが、呼吸も大変苦しい。
えずき・吐き気で我慢出来ない状態になり、動くなという声は聞こえるのだがつい身動きをしてしまう。
随分長時間に感じられた検査が終わった。
時計をみると全てが終わるまで一時間近くかかったようだった。
検査といえども手術と一緒ではないかというのが実感だった。
むしろ全身麻酔で眠っていなかった分、大変だったともいえる。

病院で1泊して、合併症や感染症への対応・確認が済んで検査翌日に退院した。
検査結果の診断が出るのは10日後だという。

●写真は、建仁寺「風神雷神図屏風」


 

Re: 健康と病気 2、病気の予感 【訂正】

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 2月 4日(火)
  >
> 「肩肺で長年生存している人がいる」とか聞くと、…の「肩肺」は間違いで、
正しくは「片肺」でした。
間違いをお詫びして訂正いたします。
 

健康と病気 2、病気の予感

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 2月 4日(火)
  今回病気ではないかと思ったきっかけは、昨年10月中頃特に背中が痛くなったからだった。
15年ほど前、尿管結石になったことがあったので又再発したのかと思ったのだ。
文字通り七転八倒するほどの痛みで、仕方なく大病院の「泌尿器科」へ行くことにした。
とにかく鎮痛剤が欲しかった。通常の鎮痛剤では効かないので座薬の鎮痛剤を処方してもらい、そして様々な検査を受けた。血液検査・一般撮影・CT撮影などである。
診断結果は、尿管結石ではなく胸部に「癌(がん・ガン)の疑い」があるという。

それで次は「呼吸器科」へまわされ、また同様の検査を受けた。
診断結果は、やはり肺癌の疑いありということだった。
一般レントゲン撮影にもCTにも、映像にはっきりと異常な影が認められた。
左肺の上葉に5センチ大、同じ左肺下葉に2センチ位のほぼ円形の像だった。
医師の所感では、大きい方の像は薄くぼやけているので、軽い肺炎か何かで心配はないかも知れないが、小さい方の円形の影は肺癌ではないかと思うと言い、気になるからと気管支鏡検査を勧められた。
内視鏡・気管支鏡を挿入して気管支内部を目視・撮影。併せて細胞を採取してくるという。
「手遅れになるといけないので、すぐ検査入院の手続きをしましょう」という医師に対し、
「考えさせてください」と言って、その場で検査に同意しなかった。

11月中旬から咳と痰が出はじめた。咳がでると止まらなかった。
夜に中々眠れなかった。赤黒い血が混じったような痰になっていた。
ネットで調べると、
「肺はふつう痛みを感じない臓器なので、それが痛みを感じるまでになると、癌が進行して手遅れになっている場合が多い」とか「痰に血液が混じってくると肺癌の疑いが大いにある」というように、悲観的な記事が多かった。
「まさか自分が癌になるとは…」
「こんなことで俺が死ぬはずはない…」
「もし癌だったら、あらゆる治療を試みても余命二年が限度だろう」
「いや俺は一切病院の治療は受けないので、二ヶ月もしない内に死ぬかも知れない」
生命の危機が間近に迫っていると思うと様々なことを考える。
「早期発見、早期切除で助かる」「肩肺で長年生存している人がいる」とか聞くと、いっそ思い切って手術してみようか?と、つい生に執着して迷う。
「しかし……」とも思う。
以前から私は、「山内理論」に基づいて現代医療の問題点を指摘してきた。
特に癌の治療に疑問を投げかけた。癌は切らない方がよい。放射線治療も抗癌剤治療も効果はほとんど期待できない、などと言ってきた。
山内理論とは、元薬剤師の山内光雲(故人)が独自に提唱した、現代医薬や医療を否定する治療論で「病院から逃げよ」と副題がつく。
自分なりに医療について勉強し、私は今もその考えは正しいと思っている。
「よし!自分の身体で命をかけて試してみよう」
このように私は決心した。

その日から癌との戦が始まった。戦というより付き合いと言う方が正しい。
癌に挑戦するのではなく、なだめすかして何とか退散してもらおうと思ったのである。

?できるだけ美しい水を毎日多く飲む
?手当(手の平を患部に当てて気を送る)
?人参を毎日多く食べる
?症を出し切る(咳や痰を出るままに出す)
?抗生剤は使わず自然治癒力を信じる。

今までも西洋医療の世話にはならず、私はこの方法で治してきた。
尿管結石になったときは、?と?の方法だけで治した。
交通事故で手首を骨折したときは、独自のリハビリと?の方法だけで治した。
人間の身体は実に精妙に作られている。自然にまかせば、たいていの病気は治るのである。
今回も同様に、自分の治癒力を信じて?~?を実践する。

●写真は、建仁寺法堂天井画「双龍図」


 

健康と病気 1、立 春

 投稿者:やさか  投稿日:2014年 2月 4日(火)
  病魔に命を奪われそうになった。
夜明け前は一番暗いという通り、特に昨年12月はひどかった。
年が明け本日立春を迎えて、やっと命拾いをしたように思う。
これほど立春が待ち遠しかったことは今までの記憶にない。

私は、昨年と一昨年は中国推命術でいうところの「辰巳空亡」の年にあたり、辰年と巳年は運気が悪かった。それで、午年の節分が過ぎるとこの悪い運気から逃れられると思い、立春を待ち焦がれていたのである。
古いことを言うようだが旧暦風の考え方でいくと、節分までは前年の運気を引くので2月3日迄は巳年の運気のままである。立春を過ぎてはじめて本当の午年に入るという。
中国の推命術は、何千年にもわたる統計学的な運命推論体系で、一言で言えば生命の好不調の波をはかる。
その推命術でいう空亡の年は絶不調期にあたる。
私の場合、実際に平成24・25年は、計画通りに事は運ばず体調も良くなかった。
長年の病院嫌いと不養生がたたったか、身体中そこかしこが痛くなったのである。
肩が痛い、腕が痛い、膝が痛い、尻が痛い…と言った具合だった。

●写真は、立春を迎えた金剛・葛木山、日の出直前の様子。美しい朝焼けだったが、稜線に沿って白い雲が乗っかって、あたかも冠雪のようにも見え