吉野宮の謎 |
吉野宮、吉野離宮は何処にあったか? |
吉野宮があった所は宮滝だといわれているが はたしてそうだろうか。否、それは違うと筆者は思う。 吉野町宮滝のあの場所は、古代の集住遺跡に過ぎない。 つまり、縄文遺跡と弥生遺跡が重層した複合遺跡にしかみえず あの場所に古代の吉野宮(離宮)があったとはとても考えられない。 あのような「気枯れた」場所に宮柱を立てるはずがないと思うからである。 そもそも宮滝遺跡のある地域は、古代に吉野と呼ばれていた吉野本郷ではなく 那賀郷と呼ばれたうちの中荘村に該当し、ここに吉野宮があったとするのは無理がある。 「やさか掲示板」に掲出済の投稿を抜粋再編して以下に述べてみる。 |
吉野宮の謎1、本当に宮滝は吉野宮跡か? 吉野町HP「吉野歴史資料館」の[展示のみどころ]の記事に疑問がある。 この記事のなかで、「吉野宮の成り立ちと移り変わり」の項に、 「…飛鳥時代に入ると宮滝には吉野宮が造営されました」 「…奈良時代には吉野宮の西側に吉野離宮が造営されました」 …というような記述がされているが、このような表現は如何なものかと思う。 宮滝が古代の重要な遺跡であることは事実であるし、誰もが疑問を挟まないであろう。 しかし、宮滝を古代の吉野宮跡であったとするには様々な疑問が残る。 発掘跡は埋め戻されていて写真で見るしかなく、また素人の筆者がいうのはおかしいかも知れないが、大いに疑わしいと思う。筆者にはどうしても吉野宮跡とは考えられない。 あれは、縄文遺跡の上に弥生遺跡が重層した複合遺跡としか思えないのである。 つまり、古代の集落跡にすぎないと考えられるので、宮滝が吉野宮跡地とは、まだ確定できないはずである。 では何故すなおに「吉野歴史資料館」の記事を肯定できないかだが、それは、そもそも古代の吉野というは、吉野川の南岸(左岸)一帯を指す地名と考えられるからである。 大和国中(くんなか)から来て、立ちはだかる吉野川の流れを南側に越えてこそ仙境吉野国に入れる。つまり、聖と俗の結界が吉野川という訳だ。 そして、この吉野川は敵の侵入を防ぐ自然の水濠の役割をも果たしているのである。 そのような訳で吉野宮は北岸に造営されるはずがない。 再述するが、聖なる神仙郷「よしの」は吉野川の南岸でなければならないのだ。 宮滝の地は立地条件の上からも吉野宮ではあり得ないと思う。 橿原考古学研究所も公式には、宮滝=吉野宮とは発表できないと思う。 現に末永雅雄博士も生前に「この地が吉野離宮の跡地と断定する資料は得られなかった」と言い、「今まで宮瀧が吉野離宮とは言うたことはないけど、君は言ったらいい」 というようなことを協力者の前園実知雄氏に語ったらしいことが、氏の論文「宮滝遺跡と吉野宮」に記されている。 これから判断すると、宮滝が吉野宮跡であると主張し始めたのは前園氏だと推定できるのではないか。 ●写真(上):吉野歴史資料館前に展示されている「発掘説明パネル」 ●写真(中):「史跡 宮滝遺跡」と刻された顕彰碑 ●写真(下):末永雅雄博士の名も刻されている「吉野離宮顕彰碑」 吉野宮の謎2、「吉野宮」と「吉野離宮」は別個の施設か 宮滝の地は近年、吉野宮(あるいは吉野離宮)の旧跡であるかのように喧伝されているが、はたしてそうだろうか。 確かに宮滝遺跡は、古代史を研究する上で重要な遺跡である。 しかしながら筆者は、宮滝が吉野宮の跡地だとする見解には疑問が残る。 また、壬申の乱前、即位前の大海人皇子が立てこもり挙兵した吉野宮と、 乱後持統天皇が繁く通った吉野宮は、その性格も所在地も違ったはずである。 前者は、いざとなれば堅固な城塞に代わる山頂の神社ではなかったか。 後者は、壬申の乱後、平地に建設された天皇の別荘的な離宮だったと見る。 つまり、「吉野宮」と「吉野離宮」まったく別の目的を持つ施設だったので、 同じ場所にあったとは考えられない。 ●写真は丹生川上神社中社境内の「吉野離宮址 顕彰碑」で、次のように記されている。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 吉野離宮址 離宮の行幸のたびに珍しと 蛙の声を聞こしめしけむ 元宮中顧問官 井上通泰 萬葉の歌に多く詠まれ又しばしば蟻通ひ給ひし吉野離宮は雄略天皇が御獵なされた 小牟漏岳の麓秋津野の野辺に宮柱太敷まして建てられてゐた。 そこは丹生川上神社の神域地でこの辺りから奥に離宮があったと推定される。 この対岸には大宮人の邸宅があって川を堰止め舟を浮かべ離宮に出仕のため 朝な夕な競ふて渡った。今も邸宅の名残である御殿や軒先と云ふ地名が残ってゐる。 昭和41年10月18日 東吉野村郷土史蹟顕彰会 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 丹生川上神社中社でも、吉野離宮址はここにあったと主張しているようである。 吉野宮の謎3、吉野宮/吉野離宮は何処にあったか? 吉野町の宮滝遺跡は、昭和5年から平成12年まで約70年間に、59次にわたって発掘調査が実施された。しかしながら橿原考古学研究所の初代所長だった末永雅雄博士が生前に洩らしたように「宮滝が吉野宮跡だとの確証は得られなかった」ようである。 「それはそうだろう」と筆者は思う。そもそも吉野宮と呼ぶからには、それは吉野に所在しなければならない。宮滝遺跡のあるところは、古代に吉野と謂われた地域とは違うと思うのである。本来吉野と呼ばれた地域は、古代吉野郡の四郷、即ち吉野・賀美・那賀・資母のうちの吉野本郷でなければならない。宮滝遺跡のある地域は、那賀郷と呼ばれたうちの、中荘村に該当し、ここに吉野宮があったとするのは無理がある。 宮滝の地は近年、多くの出版物で吉野宮址のように述べられているが、決して確定している訳ではないはずだ。確かに宮滝遺跡は、古代史を研究する上で重要な遺跡である。しかしながら筆者は、宮滝が吉野宮の跡地だとする見解には疑問が残る。何故か? それは、以下の疑問点があるからである。 ●宮滝へは、飛鳥から芋峠、壺阪峠あるいは芦原峠越えではあまりにも険しく、都人(みやこびと)が乗る車駕が通行できない。緩やかな車坂峠越えで宮滝まで行くと28.9km(現在の道路で計測。橘寺前→下土佐→市尾→奉膳→岡崎→宮滝)もあり遠すぎる。また、吉野川に突き当たれば(現在の岡崎交差点)川向こうがすぐ吉野なので、そこから更に12.3kmも東に遡る必要はない。つまり吉野離宮は、すぐ対岸あたりにあったのではないか。 ちなみに飛鳥の中心地、橘寺前から千石橋北詰まで計測すると16.6kmであった。 ●宮滝のような両岸が切り立った景観の吉野川では、万葉集にあるような舟遊びはできない。それに、宮滝のような古い気枯れた集落跡に宮柱は建てないだろう。 ●吉野の地は都人から見ての異境で、いにしえより“吉野国”と憧れられた神仙境であった。その桃源郷と俗界は吉野川で隔てられていたので、仙境吉野は国中(くんなか)から来て、吉野川を向こうに渡った南側でなければならない。いわゆる河内と呼ばれた吉野川南岸の、河岸段丘に吉野宮はあったはずである。あらためて言うが、吉野川の北岸にある宮滝は吉野宮跡ではあり得ないと思う。 吉野宮の謎4、 では、宮滝でなければ何処か? 以下は、いずれも筆者の独断と偏見による推定である。 吉野宮と吉野離宮は、その性格も所在した場所も同じではなかったという筆者の立場から、それぞれの比定地を挙げてみる。いずれも吉野川の南側で、古代の「吉野監」以前に吉野国と呼ばれていた地域にあった。 ●吉野宮の比定地 吉野宮は吉野川の南岸(左岸)で、いざとなれば堅固な城塞となる山頂の神社ではなかったかと思う。その候補地として、以下に現在の住所表記で述べる。 @新住八幡神社境内地/吉野郡下市町新住(宮山)…麓の平地の寺は「宮前寺」という A波比売神社境内地/吉野郡下市町栃原(黄金岳)…見晴らしが良い B波宝神社境内地/西吉野町夜中(白銀岳)小竹宮…南・西・北の三方が開け見晴らしが良い ●吉野離宮の比定地 吉野離宮は、吉野川南岸の平地に造営され、天皇の別荘的な機能を持っていた。 現在の地名で述べれば、吉野郡下市町の千石橋から越部・六田・上市の吉野川南岸沿いの平地部に造営されていたと思われる。その候補地は以下。 @吉野郡下市町新住、宮前寺付近 A吉野郡下市町阿知賀 白髭神社付近 いずれもこの辺り一帯は、渡来文化の先進地域である。 吉野宮の謎5、宮滝は吉野宮(離宮)跡ではない? 臆面もなく自説を開陳してしまい、「自説というより稚拙あるいは稚説?」と世間から嘲笑を買うかも知れません。でも筆者は、 「…飛鳥時代に入ると宮滝には吉野宮が造営されました」 「…奈良時代には吉野宮の西側に吉野離宮が造営されました」 というような吉野歴史資料館のHPの記事にはどうしても納得がいかないのです。 橿考研の見解をふまえての記事だとは思うのですが、 宮滝=吉野宮跡と、どうして言えるのでしょう。大いに疑問があります。 宮滝のように古代の遺跡が重層した、古代人の居住址に宮柱は建てないはずだからです。 それに、宮滝の地は古代に吉野と呼ばれた地域ではないと思います。 この掲示板をご覧になった多くの方は、当方の意見に同意できないかも知れません。 もし宜しければ、ご意見をお聞かせいただき、ご教示いただければ幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。 ●以下の写真は筆者が考える、吉野川南岸の吉野離宮候補地2箇所です。(いずれも吉野川北岸から撮影) ↑下市町新住/宮前寺周辺(新住八幡神社の北側)
↑下市町阿知賀/岡峰古墳近辺(阿知賀八幡神社北側) 現在は広大な竹藪になっている辺りが吉野離宮跡の第2候補地) 再編掲出:平成26年2月23日 吉野宮の謎6、宮滝≠吉野宮 大阪狭山市の市立図書館へ行ってきました。 ご存知橿考研初代所長、故末永雅雄氏は大阪狭山市の出身なので、末永博士の著作・論文がすべて揃っていると聞いたからです。 多数の著作の内、『増補 宮瀧の遺跡』末永雅雄著/昭和61年8月20日発行をつぶさに読み進めました。 同書は、厚さが5センチもあろうかという大部の報告書ですが、その大部分は土器の遺物写真や図版です。 期待していた宮瀧の遺跡と吉野宮(離宮)に関わる記事は驚くほどに少ないものでした。 それでも、―宮滝遺跡遺構編ー(第44次調査)―――の記事中に 弥生人の墓である「方形周溝墓」や「土器棺墓」の遺構があったと記されていることを見付けました。そこには「七基の方形周溝墓と土壙墓そしていくつかの木棺墓の痕跡を検出した」と記されていました。また、それが古代人の住宅に近接していたというようにあり、人骨片も出ているともあります。 この記事から判断しても、やはり、宮瀧は吉野宮(離宮)跡ではないと、改めて意を強くしました。 古代人の生活跡や墓地のような穢れは忌み嫌われて、そのような場所には、決して宮柱は立てないはずだからです。 吉野宮=宮瀧説は、いつの間にか綿密な検証無しで一人歩きしたように思われてなりません。 「やさか工房」管理人マルヤ 追記:平成26年4月4日 参照リンク ●吉野離宮の比定地:http://www.yasaka.org/KOBO/yosinorikyu.html |