哲学とは考えること


「存在と生成」について/プラトン哲学から

プラトンの哲学は、先行する初期のギリシャ哲学に対立する批判から確立されてきたという。ではプラトン哲学とはいかなるものか。それを知るためには「イデア論」といわれる形而上学を理解しなければならない。
 簡単にいえば、「イデア」とはプラトン哲学の中心概念で、真の実在とでもいうべきものである。これは感覚世界の本質とも言え、理性によってのみ認識される。
 プラトンは先人の哲学に対決することで自らの哲学を展開したが、その中心的問題は「ある(存在)」と「なる(生成)」であった。ギリシャの思想家たちは、身近で捉えどころの難しいこの問題に古くから取り組んできていた。これについてプラトンの思索展開の特徴は、言葉(ロゴス)中心の存在把握、真理の絶対性の確保、数学的存在理解である。

先に、「プラトンは先人の哲学に対立して…」と述べたが、では、先人思想家の特に誰の思想に批判を加えたのだろうか。
 前500年頃の思想家で、「万物は流転する」といったヘラクレイトスは、また、万物は根源的実体である火の変化したものだといい、ロゴスは火であるともいった。このヘラクレイトスを「流動説」の代表として、対決したのがプラトンであった。
 世界のあらゆる事物は、絶えず生成・変化・消滅している。これら物事の始まり・始原を「アルケー」という概念で示すが、ヘラクレイトスはこれを「火」だという。この生成論に対してプラトンは、「言葉」によってこそ生成変化は成り立つと考えた。
 言葉がなくなってしまえば、あらゆる事態そのものが成立せず、生成変化すらなくなってしまう。生成変化とはそれ自体が「言葉」なのではないかと考えるに至る。 変化する事態は事物そのものではなく、まさに言葉による変化以外の何者でもない。このようにプラトンは「言葉(ロゴス)」を生成論の中心としたのであった。
 プラトンは、「ある」こそが「なる」に先行し、それを成り立たせているという。なぜかといえば、言葉が捉えて成立させるのは、何よりもまずこの「ある」という事態なのだと。
「なる」という生成変化の把握は、言葉で「ある」という事態を捉え、そこから「なる」に関わるしかないとプラトンは考えたのであった。
 
 プラトンは終始、言葉による認識を追及する。その一方でこの時代の「ピタゴラス派」の影響を大いに受けた。ピタゴラス哲学の教説は、霊魂の永続と輪廻思想、数学を根幹とした世界観などである。
 ピタゴラスは「数」に特別興味を持ち、世界の根源は「数」であるといい、一切は奇数と偶数で示されるとした。万物を「数」で一切が表現できるという。神秘主義者だったともいわれている。
 プラトンがピタゴラス派の思想に直接触れたのは、前387年頃だという。それ以降、プラトンは彼ら(ピタゴラス教団?)の教説を取り入れて、自らのイデア論に反映させていった。とりわけ「数」と「調和(ハルモニア)」の宇宙論に積極的だったといわれる。

さてここで、筆者の思うことを述べてみたい。
 考えることが即ち哲学だとすれば、学者ではない私でも「哲学する」ことができる。そこで上記各論に関わることについて、自分の考えを述べてみる。
「同じ川に二度入ることはできない」これは、諸説があるようだがヘラクレイトスが語ったとか。このことで思い起こすのは、鴨長明の『方丈記』の冒頭文である。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたる例なし…」これは時の流れを象徴して無常観を表しているようにもみえる。

また、もうひとつ関連して思い出すのは、仏典にある「ミリンダ王の問い」で、これはミリンダ王と尊者ナーガセーナとの問答である。そこでは灯火を例に「主体の転移」について、又、「事象の連続」についての問答がある。その中での王の問いに、灯火を転じた場合、「初めの火と、中頃の火と、終わり頃の火は同一のものか?」との問いがあり、ナーガセーナは次のように返答する。
「大王よ、事象の連続はそれと同様に(それに依存して)継続するのです。生ずるものと滅びるものは別のものではあるが、一方が他方よりも前のものではないがごとく、また後のものでもないかのごとくに、いわば同時のものとして継続しているのです。こういうわけで、それは同ならず、異ならざるものとして、最後の意識に摂せられるに至るのです。」

なにやら比較哲学論?のようになるかも知れないが、洋の東西を問わず連続性についての問題は思想家の頭を悩ませてきたようである。この文言を考えると、「…最後の意識に摂せられるに至る」というところが結論かと思われる。つまり、事象は変化するものの最後(この場合、その時点)の「意識」だけが真実だと言っているのではないか。

ヘラクレイトスは「流動説」を唱えて、すべての生成変化の根源は「火」であるという。
 これに反してプラトンは、言葉によってこそ生成変化は成り立つと言った。変化する事態は事物そのものではなく、言葉によって捉えられた変化以外の何者でもないという。
 一般的な見かた・考えからすると、まったく変な論理だと思う。が、しかし、それが実は真実ではないかとも思える。というのは言葉を介して「意識」が捉えたことのみが真実の本体・本性かもしれないと思うふしもあるからだ。
「バーチャル・リアリティ」という言葉がある。仮想現実、あるいは仮想現実感とでも訳されるものだ。そのことについて筆者は時々考えることがある。コンピュータなどの科学技術が進化して、空間に現実と変わらない映像を再現する技術が確立されたとしよう。それに視覚や聴覚、嗅覚、触覚などにも、現実と変わりなく感覚が再現されるとしたらどうなるのだろうか。虚像と現実の差が縮められると、それが真実になる可能性が出てきたりはしないだろうか。つまり、自分の感官が真実だと認めると、それが即ち真実でありうる。
 考えてみると、現実と虚構と区別できかねることは現代(現在?)でもあるではないか。夢と(うつつ)である。昨日現実にあったことと、昨夜の夢とは病気でないかぎり区別ははっきりしている。ところが、何年か前の出来事と昨夜の夢が区別できないことがありはしないか。筆者は、特に幼年期に実際にあったであろうことと、夢の中の出来事は区別し難い。時間とも密接に関わることである。

このように「ある」、「なる」、「ない」等、連続性や存在(実在)の問題はこの上なく難解である。哲学上の永遠の課題だろう。

以 上  

参考文献:  『この一冊で哲学がわかる』白取春彦著/三笠書房
『同一性・変化・時間』野沢茂樹著/哲学書房
『プラトン-哲学者とは何か-』納富信留著/NHK出版
『ピュタゴラス派 その生と哲学』B.チェントローネ/斎藤憲訳/岩波書店
 
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