丹生についての覚書 |
●[丹]とは 漢語でいうところの「丹」tan/danとは、朱砂(丹砂、辰砂)Cinnabarのことである。 日本に漢字が伝わった時、日本で「に」と呼ばれていた鉱物が中国で“丹”といわれていたものだったので丹の字を当てた。 それで丹とは、本来は水銀の原料であるところの朱砂のことであった。 『全訳古語辞典』には、「赤土。/黄味をを帯びた赤色。赤色の顔料」とみえるが、赤土には水銀系の赤色の土と、鉄系の赤い土がある。 後には黄色味の強い鉛丹(四塩化鉛)Vermilionが誤用され、丹と言われたようだが、これは古来の丹の字の意味ではない。 丹=水銀と言えないが、本来の用語からは、丹=ベンガラとも言えないと思う。丹≒赤土とは言えるだろう。 一般的には、赤色の鉱物を丹と称していたように思える。 ちなみに、京大国文学研究室編『諸本集成 和名類聚抄/本文編1』によれば、 「丹砂/考聲切韻云丹砂/中略/似朱砂而不鮮明者也。」とある。(…丹砂は朱砂に似ているが不鮮明。という意味か)中国語で検索をかけると金丹術で用いるようで、 「丹/就是丹砂,即紅色之硫化銾。」とある。(丹、これは丹砂のことで、すなわち紅色の硫化水銀。という意味か) 『丹生の研究』松田壽男著には以下のように記されている。 「要するに天平以前の日本人が“丹”字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は“に”と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ“そほ”には“赭”の字を当てた」 丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう。 ●[丹生]とは 丹生とは、上記“丹”の生産やその産地を“丹生”といい、ひいてはこの生産に携わる者たちをも丹生と言ったと考えられる。 この仕事を生業(なりわい)とした者達がいわゆる「丹生族」であり、これが丹生部であろう。土師部、壬生部、丹治比部、埴生部は丹生部民とも関連する部族だったはずである。 私は、自作の物語「真朱の姫神」の中で 『古代の鉄と神々』真弓常忠著を参照し、 「古代ヤマトでいう丹とは 硫化水銀(朱)、四塩化鉛(丹)、褐鉄鉱、赤鉄鉱、酸化鉄(赭)をいい、その生産・精錬を主に生業とする部族を丹生族といったのである」 とした。 広い意味では、水銀はもちろん、金・銀・銅・鉄などの採鉱や精錬、土器製作や土木工事をも含む、凡そ土に関わるすべてに丹生部は係わっていたと思われる。 ●[丹生氏]とは 古代に「丹生」という苗字/名字、氏名(うじな)は無かった。(と思う) 文献における丹生氏の初出は、太田亮氏の『姓氏家系大事典』によれば、 「至徳元年(1384)四月の[大和武士交名]に丹生氏見ゆ」とあり、これが初出かと思うのだがどうだろうか。 他には南北朝時代の初め頃、名和長年の軍に属して活躍した丹生義範の名がみえるが、これも1330年代と判断できる。 つまり丹生氏という氏族は、さほど古い氏族名ではないと思える。 …と言うと、疑問を持つ向きもあろう。また反論もあると予想できる。 ――『新撰姓氏録』に“息長丹生眞人”という人物が記載されているではないか? ――『万葉集』に“丹生王”“丹生女王”の歌が載せられているではないか? というような質問が有りそうである。 前者について言えば、なるほど『新撰姓氏録』は815年の完成であるので、それ以前にこの人物は実在したことになるが、息長丹生眞人は丹生氏ではなく息長氏である。 何故そういえるのかと言えば、 息長:氏族名、 丹生:職掌(この場合は丹生部を統括する意か) 真人:姓(かばね)の一、684年制定の八色姓の第一位 …と以上のように分けて考えられるからだ。 後者について言えば、なるほど『万葉集』巻三、巻四に丹生王(にふのおおきみ)のつくれる歌一首、丹生女王(にふのおおきみ)太宰師大伴卿に贈れる歌2首が見える。 この歌は朱鳥元年(687)から天平二年(750)位までの歌のようだが、これも丹生氏の意味ではなく、丹生部を司る王族ではないかと考えられる。当時、「丹生王」或いは「丹生女王」と言えばどの人物を指しているか誰もが分かったのだろう。 私が考える「丹生氏」という氏名(うじな)は、中世以降に丹生部に所縁の一族が、丹生(氏)と名乗りはじめたのがその初代であろうと思う訳である。 以前にも書いたことがあるが、丹生氏について考えるときすぐ思い出すのは、丹生川上神社下社の前宮司上杉氏から聞いた言葉である。 それは、丹生神社や丹生都比売神について様々な話を伺った後、丹生氏の話になり、 私が 「吉野には丹生氏がいなかったのですか?」 とお尋ねしたところ、 「ハハハ、みな丹生氏ですよ!」と笑われてしまったことだ。 丹生族・丹生部は、おしなべて丹生氏と言えるということだろう。 なるほど言われてみれば、武田も新田も足利も土岐も村上も…みんな源氏だと言うのと似通っている。 息長丹生眞人という人物は、『新撰姓氏録』右京皇別の二番目にに記載されており、左京皇別筆頭の息長真人同祖と記されている。 それから考えてみても、丹生部は当時の国家にとって特別重要な職掌を担っていたと思われる。 (大化の改新645年に民部は廃止されたとされている。~部とは言わないまでもその職制や仕組みは後の時代まで残っていたのではないだろうか) ●[丹生都比売]とは ニウツヒメ神は、丹生都比売・丹生津姫・丹生津媛・爾保都比売というように漢字表記されている。 しかし、この神名を音で写すなら 「爾保都比売」が一番近いようにおもわれる。 と言うのは、「丹」には「に」の音が無いからである。 丹は漢音呉音ともに/tan/或いは/dan/で、語頭の子音に「n」音は無い。 丹生都比売と爾保都比売が、もし別神だとすれば、 厳密に音写するなら、「爾布都比売」とでも表記しなければならない。 「都」と「津」の用字は、漢音呉音ともに「つ」の音があるので、どちらでも差支えはないだろう。 ところで、この丹生都比売はどのような神なのだろう。 「神武天皇が丹生の川上にのぼって天神地祇を祀られた際、稚日女尊は丹生都比売命と名を変えられて祀られた。故に丹生都比売命は稚日女尊と同神なので天照大神の妹神である」 …というような説?もあるようだが、それは違う。 そのような記述は『記』『紀』に無い。 稚日女尊は天照大神の妹神かも知れないが、丹生都比売命は天照大神の妹神ではない。(と思う) 「尊」と「命」は尊貴さが違うからである。しかしながら地祇から天神に格上げされた可能性はあるだろう。 この丹生都比売神は、丹生族が斎祀った神なので「丹生の神」、つまり本来は採鉱や精錬の神であったと考えられる。 しかし、国人(くにびと)の生産活動の中心が稲作に移行するに伴い、人々の要求に基づいて祭神の性格さえ変容してきたという。 松田壽男の 「ニウヅヒメの大和系変化説」である。 氏は、「もともとの水がね姫祭祀を失って…ニウヅヒメからミズハノメへ、そしてオカミ信仰へと変遷した」 というのだ。 時の政権が農耕、特に水稲栽培を奨励したからでもあろう。 大和国中(くんなか)や吉野の神社をみてみると、この説は大いに首肯できる。 祭神も時代の要請で変遷して行き、後の時代では、丹生都比売神は水の神や農耕・稲穂の神、 はては織物の神だと云われても否定できない道理である。 松田壽男著『丹生の研究』p.115には、次のように記されている。―以下引用― 「彼らはニウヅヒメノの機能を農耕に求めてしまった。しかも後代には、それに一層の尾ヒレをつけて、農耕殖産産業の神と宣伝して、この女神を時流に乗せようとしたのである。実をいえば、古代の鉱業神であったニウヅヒメの影が薄れた原因は、農耕の全面的な発達にある。それにもかかわらず、丹生氏はその農耕をニウヅヒメに附会して、その祖神を曲解させてしまった。丹生氏は自らの手で祖神を葬ったといえるであろう」― ●[吉野・丹生族]とは 古代の吉野には、丹生という地名があり、丹生川があり、丹生社もあって、所謂丹生族が居住していたが、丹生氏などというような氏族はいなかった。 吉野の首長は吉野氏である。この吉野氏には二流ある。 吉野眞人: これは敏達天皇の孫の出自で百済王にも繋がる王族。『新撰姓氏録』では左京皇別16番目に記載あり。吉野の支配者で、同族の吉野連に吉野丹生族を支配させた。天武天皇の側近でもあった。 吉野連: 『新撰姓氏録』には大和国神別地祇に記載あり。「加彌比加尼之後也」とみえる。 実質の吉野丹生族の支配者。水光姫を奉祭した。『続日本紀』によれば、吉野連の一族には吉野連久治良、『続日本後紀』では、吉野連豊益、吉野連直雄がいたことがわかる。豊益は外従五位下の官位で吉野郡大領であった。 では、天武朝以降、天皇の名のもとに全国各地の丹生族を統轄したのはどのような人物だったのだろう。 あくまでもこれは推定だが、職掌からみてそれは、息長丹生眞人ではなかったか。 『新撰姓氏録』右京皇別の二番目にに記載されている人物である。 最上位左京皇別筆頭、息長眞人と同祖なので地位に不足はない。 その支配下には丹生部だけでなく、土師部・壬生部・丹治比部・埴生部などをも差配していたのではないかと思われるのである。 丹生を統べていたのは息長氏だったと私はみている。 ●[丹生川上神社とは] 丹生川上神社下社の祭神は「丹生大明神」とも呼ばれていたようだ。 では、丹生大明神とはどのような神なのだろう。 もう十年以上も前のことになるが、下社の前宮司から、 「丹生大明神というのは、丹生都比売神のことである」聞いたような記憶がある。 古代より吉野丹生族が祀っていた神には「水光姫神」がいるが、これは吉野丹生の主族、井光が祭る女神である。 『新撰姓氏録』では「吉野連が祀るところの神」となっている。この神は「水」の字が入っているが、水の神ではなく採鉱の神といわれている。 他にも吉野の山王神とも言える「金精明神」もいるが、これは金峰山寺の守護神でもある。いずれも金属神だ。 ところが、現在の丹生川上神社は、 上社:高龗神(タカオカミ) 中社:罔象女神(ミヅハノメ) 下社:闇龗神(クラオカミ) …といずれも龍蛇神で水の神でもある。 では実際のところ、丹生川上神社の祭神は金属神なのか水の神なのか?どちらが正しいのだろう。 ここで前出の松田壽男の「ニウヅヒメのヤマト系変化説」を思い出す。 つまり、採鉱・精錬などの金属神が時流にあわせて祭神の性格を変遷させていく説である。 社伝によると、丹生川上神社は天武天皇により白鳳四年(648?)に創建されたと伝わる。 つまり、この地にあった丹生族の神社を、新たに水神の神社として創り直したとも考えられるのだがどうだろう。 丹生川上神社は、各地にあるにある丹生神社とは違うのである。また、丹生都比売神社でもない。 丹生川上神社は、農耕それも特に水稲栽培を推進させようとする天武政権の政策に基づいた別格の神社といえよう。 「やさか掲示板」投稿文より、平成22年8月1日 /平成23年3月4日、部分訂正・加筆。 |
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