空海伝の覚書 

  ●若き日の空海

 真魚(まお/空海の幼名)が修行したのは、吉野、そして讃岐だといわれています。
空海は、入唐二年後に帰国して高野山を訪ね、後に勅許を得て高野山を賜っていますが入唐以前、おそらく得度もしていない優婆塞の頃、吉野から紀伊にかけての山塊を跋渉して、すでに高野へ足を踏み入れ、よくこの地を知っていたようです。(『性霊集』に記述あり)
その真魚と呼ばれた若き頃、いわゆる「山民」とのつながりが出来たものと思われます。
山民には大まかに、杣人・狩人・金堀人が居たといえると思います。
生業(なりわい)が重なる部分もありますが、樵夫、木地師、竹細工人、焼き畑耕作人、山菜採取人、川漁人、狩猟民、採鉱・精錬・鍛冶職、などを生活の糧とする人々です。

若き日に、空海が出逢った南山の犬飼とは猟師でしょう。
或いは採鉱探査師かも知れません。
南山とは、後醍醐天皇の歌 

“玉骨はたとひ南山の苔に埋まるとも魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ”

とあるように、それは都から見ての表現で、吉野の山々のことと思われます。
それにしても「空海物語」とは、あまりにも無謀ですよね。
偉大な空海さんは、とても書ける対象ではありません。
それで、等身大の凡人「真魚」を書いてゆきたいと思います。
仮称「もう一つの空海物語」です。
この物語では、若き時代の空海、真魚を主人公に、
大安寺僧の戒明、阿刀大足、真魚の学友伊予親王、優婆塞の前鬼、吉野丹生族の娘、犬山師家信…等の人物を登場させようと思っています。


●物語の周辺

○父母について・・・・・
『續日本後紀』には 「法師者。讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。」と記されているのみですが、
後の伝記などに従い、「父は佐伯直田公。母は阿刀氏の娘阿古屋」の説を採ります。

○何時、何処で生まれたか・・・・・
一般的には、宝亀五年(774)6月15日、四国の讃岐国多度郡屏風が浦で生まれたとされています。ところが最近、高野山大学・武内孝善教授は空海畿内誕生説を唱えておられます。根拠が確実で説得力のある説だと同感できるので、この説を支持し、この物語でも生誕地を阿刀宿彌の本貫地、河内國渋川郡阿刀郷としました。

「では續日本後紀に、“法師は讃岐国多度郡の人”と記されているのはどうなるのだ」
「續日本後紀は史料として信頼できると前に書いたのは間違いなのか?」などと言われそうですが、この時代は妻問婚の時代なので幼年期は母の里で過ごしたものと思います。
一般的に父が認知?すると、その父の本籍地に入れられるのではないかと思うので、「讃岐國多度郡人」という記述は間違いではないと言えます。ちなみに空海は三男のようで、他に兄が二人、後に弟子となる佐伯直姓の弟もいたようです。いずれも異母兄弟のようです。


●空海の出自について

 
空海さんの父方の先祖について書いておきます。
空海の父、佐伯直田公は讃岐国多度郡の地方役人だったといわれます。(戸主は道長)
一般的に佐伯氏には二流あって、一は中央の「佐伯宿彌氏」。もう一つが讃岐の「佐伯直氏」といわれています。ところが、『新撰姓氏録の研究』佐伯有清著によりますと、他に佐伯造氏、佐伯連氏、佐伯首氏の氏族がいたことが分かります。
『新撰姓氏録』には、
「佐伯直。景行天皇の皇子、稲背入彦命の後なり。…中略…己等は是れ日本武尊の東の夷を平けたまひし時に、俘にせられし蝦夷の後なり。針間、安芸、阿波、讃岐、伊予等の国に散け遣され、仍りて此に居る氏なり。後に改めて佐伯と為き。といふ。…以下略」。
また、「佐伯宿禰。大伴宿禰と同祖。道臣命の七世孫、室屋大連公の後なり」とあります。
『日本姓氏大辞典』丹羽基二著には、
「[佐伯(さへぎ)]さえき。種族姓。職業姓。古名族で大伴氏族。もともとサエグとは、障でこの族が荒々しい夷族であったことからくる。大伴氏の配下に属し、軍事に当てられる。播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波が古代佐伯部の本拠地。後代の氏はこれらの族の居住地からこるものが多い。」とあります。つまり、空海の父方の先祖は蝦夷だったということになります。
もう一方の中央の佐伯氏…この氏族には造東大寺司次官にもなった佐伯宿禰今毛人がいますが、この氏族も元の先祖は蝦夷だったのではないかと思われます。つまり、空海と同じ蝦夷の出自ではあったが、いち早く帰順して中央で出世した一族ではないかと思うのです。
平城京の外京、元興寺の近くに佐伯院という佐伯宿禰の氏寺がありました。
空海は元同族のよしみで、そこに度々足を運び、佐伯宿禰一族の世話になったことと思われます。
弟子や信徒に遺したとされる『御遺告』や、高弟の真済が著わしたとされる『空海僧都伝』にも、空海の幼名は真魚であったとは記されていませんが、この物語ではその他の伝記などと同様の真魚とすることにしました。
さて、この「真魚」ですが、京の大学に入学してから、そこを出奔するまでの数年と、24歳で『聾瞽指帰』を著わし、31歳で入唐するまでを合せた10年程がよく分かっていません。
『續日本後紀』の「空海卒伝」(承和2年3月21日と25日の条)には、
「…年十五舅従五位下阿刀宿袮大足。讀習文書。十八遊學槐市。時有一沙門呈示虚空蔵求聞持法…」とあります。
意訳すれば、「私は15歳のとき、伯父の従五位下阿刀大足に文書を習い、18歳で都の大学に学びました。ある時、一人の沙門から虚空蔵求聞持法を知らされました」と記されています。
歴史的に信頼できる記述としては、この空海卒伝の記事と聾瞽指帰ぐらいしかありません。
それで、ここから其の他の伝記を合せ類推し、想像を膨らませて物語にしようとしています。
さて、少年期から青年期の空海は何処で何をして過ごしていたのでしょう…?
續日本後紀の記事では15歳から学んだとなっていますが、実際はもっと幼い4~5歳頃から手習いを始めたと思うのです。
学業の方も、本当は13歳で讃岐の国学に入り、16歳から都の大学寮に転学したのではないかとみています。当時の入学年限は、国学も大学も13~16歳だったようだからです。
国学での学問に物足らずに転学した大学でしたが、そこでも儒教一辺倒の当時の授業内容に納得が行かず、仏道修行を志して無断で大学を出奔したように思います。それも、飛び出したのは大学に入学して、まだ三年にもなっていなかった頃のように思うのです。それから真魚はどこへ行ったのでしょう。
これからが「もう一つの空海物語」のはじまりです。


●青年空海の修行と恋

「若き空海」、つまり入唐以前の空海を書く上で、一番のテーマにしたのが青年僧と恋の問題です。
空海は、宗教者として偉大なだけでなく、一人の男性としても魅力にあふれる「男」だったと思われます。
その卓越した知性といい、並外れた行動力といい、明るくエネルギーに満ち溢れた人だったと想像されます。
そのような人物が生涯女性を知らなかったはずはないと思うのです。
また、多くの女性が空海に思いを寄せたのではないでしょうか?
まして得度前(20歳頃?までは未出家)の空海さん、恋をして当然と言えます。
一方の最澄さん、この人は生涯女性を身辺に近づけなかったような気がします。
最澄、空海、二人とも生涯妻帯はしていませんが、女性観はかなり違っていたように思うのです。
『理趣経』にもいうように空海密教は、必ずしも女犯を厳しく咎めることはなかったと言えましょう。

もう一つ、この物語で問題にしたのは、「虚空蔵求聞持法」の秘術です。
この記憶力を増大させるという秘法を、空海はどのようにして成満させたのでしょう。
また、求聞持法の修行とは、具体的にどのような修行なのかに焦点を当てて描いてみました。


●空海と高野山


 さて、この若き日の空海さんを主役にした物語、大体書き上げました。
それで先日、書きあげれば足を運ぼうと思っていた高野山・奥之院に参詣してきました。
史書や伝記の記述を元にはしましたが、大いに想像力をはたらかせて若き凡人空海を書いたので、或いは事実と異なる部分があり、空海さんに失礼になったやも知れません。
それで勝手に物語にさせていただいたお詫びと挨拶に参拝したのです。


お世話になりました

以前より、何時かはきっと書いてみたいと思っていた修業時代の若き空海の物語を書き上げたので、西吉野の郷土史家辻本武彦氏に一読いただこうと先日送付申し上げました。
そうしましたら奥様からお手紙が来て、昨年末ご他界なさったとのこと。
辻本氏は郷土史研究の大先輩で、光明寺の村岡空住職と共に「空海の道」についてご教示いただくなどお世話になっておりました。
残念ながら村岡空師は7年前の3月に、そして今度は辻本氏が昨年末にご逝去なされていたのです。
ご存知の通り村岡空師は、詩人であり空海研究者としても著名な方です。
お二人は、まだまだご活躍なさるはずだったのにと思うと残念でなりません。
お二人からお聞きした「空海の道」についての話しがモチーフになって書き上げた「もう一つの空海伝」ですので、辻本氏だけにでも一読いただきたかったのです。でも此岸ではもう適わないことです。
この作品今回はネットに載せないでおこうと思っていたのですが、ネットで流すと或いは彼岸の国で、退屈しのぎに二人で読んで、拙い文章だと笑ってくださるかも知れません。
そのようにふと思ったので考えを変え、ネットに掲出することにしました。
謹んで冥福をお祈りいたします。


【補足】
 空海の幼名を「真魚」と書きましたが、真魚だったかどうかは疑わしいと思います。
鎌倉時代の絵巻『高野大師行状図画』などには、真魚と名付けられたとされていますが、後代の付託かも知れないと思います。
長安で景教の影響を受けた空海が、帰国後から「貧道の幼名は真魚であった」などと言いはじめたような気がするからです。ちなみに『御遺告』には、真魚とする記述はないようです。
そして、ここで特におことわりしておかなければならないのは、上記空海についての記述には筆者の偏見と想像が含まれています。
また「もう一つの空海伝/南山の沙門」は、これも筆者の想像による創作した
“モノ語り”なので歴史的事実では無いところがあるかも知れません。

 
●この覚書は「やさか掲示板」/平成24年度掲出分より抜粋・要約
●文体が統一できていませんが、掲示板に掲出した文体のままとしています

 



この物語は、ホームページ吉野へようこそ/やさか工房/WEB小説/で
平成24年4月11日より連載していた、もう一つの空海伝「南山の沙門」を
見直し改題して単行本化したものです。


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