列島の古代部族 |
――――――――――――――――――――――――――――――――― 古代部族 @出雲族 投稿日:2013年 6月22日より ――――――――――――――――――――――――――――――――― 「出雲」とは、ふつう現在の島根県出雲市辺りの地名のことと考えられています。 そしてこの地には有名な「出雲大社」がありますが、1870年以前は「杵築神社」又は「杵築大社」と呼ばれていたようです。 ところが、京都府亀岡市千歳町に「出雲」という地名があり、ここには「元出雲」と呼ばれる「出雲大神宮(出雲神社)」があります。 また、奈良県桜井市にも「出雲」という地名があり、「十二柱神社」があって、地元では相撲で有名な野見宿禰塚があったと言います。 『日本書紀』垂仁天皇七年秋七月七日条によりますと… 天皇は群臣の提案によって当麻蹴速と野見宿禰を戦わせることにし、その日のうちに出雲の野見宿禰を呼んだというような記事があります。 この記述から考えますと、当麻邑と出雲邑は案外近くだったように判断できるので、 本来の「出雲」という地は現在の奈良県桜井市の出雲だったかも知れません。 私は、自作の『もう一つの大和物語・真朱の姫神』の中で、 「出雲大社と出雲大神宮の関係は、亀岡の出雲大神宮の方が元出雲と云われてその歴史は古く、イツモ族の元宮だ。このイツモ族は元々、吉野・熊野山系の山の民であった。その一派が吉野から丹波地方へ移住した。更に彼ら一派は天孫族に追われ、杵築地方へ逃れて行った」としました。 ●写真は桜井市出雲・十二柱神社 手前の石碑には――― 「大和国出雲村/相撲開祖/野見宿禰顕彰碑…」と刻され 後方の倉庫には―――「出雲区水防倉庫」書かれている。 ―――――――――――――――――――――――――――――― 古代部族 A吉野三族 投稿日:2013年 6月24日 ―――――――――――――――――――――――――――――― ●日本人のルーツを考えようと思い、列島に住んだ古代部族について書こうとしています。 でも、確かな文献資料や考古学に基づいた検証ができていませんので、 筆者の想像や偏見に依るところが多いことを、申し述べておきます。 この掲示板を見られた方で、ご意見がある方は 「それは違うのではないか。正しくは○○○と思う」等々書き込んで、ご教示いただければ幸いです。 古代吉野の三部族とは、『古事記』と『日本書紀』で言うところの次に示す部族です。 /以下それぞれ『記』『紀』と示します。(ここでは『記』の神武天皇巡幸順に記述) 1、贄持之子:『記』では左のように表記し(にえもつのこ)と読み、阿陀の鵜飼の祖と謂われ、 『紀』では「苞苴担之子」と書かれている。中国南海岸の雲南省辺りから筏で黒潮に乗り、南紀に渡り来て吉野川周辺に住みついた漁労民か。 2、井氷鹿:『記』では左のように表記し (ゐひか)と読み、吉野首の祖と謂われ、 『紀』では「井光」と書かれている。井氷鹿と石押分之子には「生尾」つまり尾があったように書かれているが、まさか本当に尾があった訳ではなく、 鉱山労働者が腰に付ける「引敷」のことだろう。中国の北西部の辺境に「犬戎」という部族がいたが、その先祖は犬だとする伝説があった。つまり、井氷鹿や石押分の出自は「犬戎」ではないか。 3、石押分之子:『記』では左のように表記し(いはおしわくのこ)と読み、吉野の国栖の祖と謂われ、『紀』では「磐排別之子」と書かれています。こちらの部族も「生尾」とあるので、これも採鉱民だろう。後にツチグモなどと呼ばれた。 ●筆者の考えは「吉野の古代部族」にまとめています。参照ください。 http://www.yasaka.org/yoshinoron/kodaibuzoku.html ―――――――――――――――――――――――――――――― 古代部族 Bアイヌ族 投稿日:2013年 6月25日 ―――――――――――――――――――――――――――――― アイヌと蝦夷(エミシ或いはエゾ)、熊襲 (クマソ)、隼人(ハヤト)は、皆同族ではないでしょうか。 よく判らないところもありますが、筆者は以下のように考えています。 「彼らアイヌ族?」は、呼び方はそれぞれ違うが日本列島の原住民ではなかったか。 すなわち、この列島に進入した渡来系征服者の支配下になることを拒み、 北へ北へと(列島では東北方向/鬼門)逃れて行った者達は「エミシ」と呼ばれた。 そして、南へ南へと(列島では西南方向/裏鬼門)逃れて行った者達は「クマソ」又は「ハヤト」と呼ばれた。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― アイヌ人と琉球人の血液から分析したDNAと、すでに判っている本土日本人のデータと比べますと、 共通点が多く遺伝的に最もアイヌ人に近いのは琉球人であること、 そして縄文人のDNAと非常に近いことが東大のグループによって80年代に証明されているようです。 また、本土の日本人は韓国人と遺伝子が近いことも分かっているといいます。 一方、2001年に放送されたNHKスペシャル「遺伝子」第三集「日本人のルーツをさぐる」によりますと…… ミトコンドリアDNAのタイプ別分布は以下のようになっています。 ●日本人固有のタイプ: 4.8% ●韓国に多いタイプ :24.2% ●中国に多いタイプ :25.8% ●アイヌに多いタイプ: 8.1% ●沖縄に多いタイプ :16.1% ●その他 :21.0% ――――――――――――――― 合 計 100 % なんと!日本人に固有のタイプ(日本人だけに見られるDNA)は5%未満しかないのですね。 この表から、批判を承知で大ざっぱに日本人のタイプを無理に四分割すると以下のようになります。 ●原住民系25%、 ●韓国系25%、 ●中国系25% ●その他25% となります。 言うまでもなく、アイヌ族(蝦夷・熊襲・隼人)は、原住民系に入れています。 ―――――――――――――――――――――――――――――― 古代部族 C朝鮮族 投稿日:2013年 6月27日 ―――――――――――――――――――――――――――――― ここで言うところの「朝鮮族」とは、古代に朝鮮半島から日本列島に渡り来た人人を言います。 主に朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)に住んでいた人達で、弁韓諸国(伽耶・加羅・任那)の人も含みます。 現日本人の凡そ4分の1は、朝鮮半島に先祖のルーツを持っていると思います。 例えば『記』『紀』に登場する人物の中では、 雄略天皇は高句麗系の人。 天智天皇は百済系の人。 天武天皇は高句麗系あるいは新羅系の人。 持統天皇は新羅系の人。 ……というように私はみています。では、何故そう思うかですが、 ●雄略天皇については、その即位宣言ともとれる、巻頭を飾る『万葉集』の歌に 「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ…」というのがあり、 原文では「籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持… 」と表記されていて、 このうちの「籠毛」はコモまたはコマで主に高句麗を意味するらしいので雄略は高句麗系と思われる。 ●天智天皇については、百村江の戦で国を挙げて百済を支援した。百済王族・高向王の子であるらしい。 等々のことから天智は百済系であろう。 ●天武天皇については、崩御後、明日香の桧隈大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ)の葬られたことから、 天武は高句麗系であろうと判断。「ひのくま」とは日本の狛(高句麗)族の意か。 ●持統天皇については、親新羅政策をとった事。天武の喪を知らせる使者を新羅に送ったこと。 新羅が日本に朝貢したことなどから持統は新羅系と思われる。 そして天智・天武・持統に関しては、『日本書紀』が伝えることとは違い、 天智と天武は兄弟ではなく、天智・持統に関しても父子では無かったと筆者は見ています。 古代の日本には、朝鮮三国の子孫たちの政権争いが深く絡んでいたのではないでしょうか。 ―――――――――――――――――――――――――――――― 古代部族 D漢 族 投稿日:2013年 6月28日 ―――――――――――――――――――――――――――――― ここでいう「漢族」とは、古代日本に渡り来た漢民族に所縁の人たちのことです。
史書に記載されているものでは、『日本書紀』応神天皇14年春2月の条で、 弓月君の奏上に応え、天皇が葛城襲津彦を遣わすなど手を尽くし、 16年に弓月の民を迎え入れたことが記されています。 弓月君は秦始皇帝の子孫とされ、その時帰化した120県の民は2万人以上になるともいいます。 また弓月君は秦氏の先祖ともいわれ、彼等の末裔らは日本全国に増え広がったと考えられます。 この『紀』の記事以外にも、中国から日本に渡り来た人人は多数いたことでしょう。 他にも、徐福(徐市)が始皇帝の命令で不老長寿の霊薬を求め、 数千人の人々と共に日本にやって来たとする伝説もあります。 中国の史書には次のように見えます。 ――『史記』「秦始皇本紀二十八年」―― 「齊人徐市等上書言 海中有三神山 名曰蓬莱方丈瀛洲。僊人居之。請得齋戒 與童男女求之。於是遣徐市発童男女数千人。入海求僊人。」 ●よろしければ、当方HPに掲出の物語を参照してみてください。 『真朱の姫神』黎明編:http://www.yasaka.org/KOBO/reimei_001.htm ―――――――――――――――――――――――――――――― 古代部族 Eその他 投稿日:2013年 6月29日 ―――――――――――――――――――――――――――――― ここでは、「胡族」「南洋族」「その他部族」に分けてみます。 ●胡族の中には、中国西域から中東の地域の人たちまで含めます。 ●南洋族の中に、東南アジアや南アジアの人々も入れます。 ●その他部族の中に、オセアニア地域、ユーラシア大陸北方から来た人達など、 その他の様々な地域の人々を入れておきます。 日本人は、DNAから見るかぎり、実に多くの人種が混血した民族と考えられます。 これらの人々が、戦争や利害関係で結びつき、或いは排斥するなど、 婚姻や同盟で更に多くの部族(支族・氏族)を形成していったに違いありません。 戦争に勝利した部族は、支配下に置いた相手部族を、奴隷や下層民に落し使役したことでしょう。 日本列島に渡り来た集団は、まず進入を拒む原住民を討ち従えた。 更に後からやって来た侵入者たちは、先住民を討ち滅ぼして、そこの支配者に成り代わり新たな王国を築くなど、 古代日本の歴史は、原住民と渡来系各部族同士の政権争いだったと考えられます。 単純に言えば、[原住民]×[古渡人]×[今来人]の対立の歴史でもあると思えるのです。 ―――――――――――――――――――――――――――――― 古代部族 Fまとめ 投稿日:2013年 6月30日 ―――――――――――――――――――――――――――――― 古代、集団で日本列島に渡ってきた人々はかなり多くあったと思われます。 新天地を求め、東へ東へと理想の国造りを夢見て一族で移住してきたのでしょう。 また、侵略者に多くの民が殺され、国を略奪された王族や貴族らが、残った一族や配下の伎人(職人)や、一部の下層民までも引き連れて渡り来たのもあったでしょう。 列島に辿り着くと原住民を討ち従えて、先住の支配者と交戦して殺し、殺されした戦いの歴史があった事でしょう。 戦争の勝利者は、敗者で生き残った者達を奴隷階級や賤民に貶め、隷属させることもあったはずです。 古代の日本列島には、先ず原住民がいた。 そこに、次から次へと周辺諸国から人々が渡来してきた。 古い時代に来た者達を[古渡(こわたり)]と言い、 その後に渡来した者等を[今来(いまき)]或いは[新来(あらき)]などと呼ぶ。 例えば「今来伎人(いまきのてひと)」とは、新しく渡り来た職人のことです。 日本には多くの渡来人達が侵略・移住してきたが、日本に定住するようになると、 それぞれの先祖を祀るための祠をつくりました。神社の原形です。 現代にも残る、歴史の証人とも言える神社を見てみると、 その神社名や祭神から、その地区の住民の先祖が大体判るものです。 もちろん、原住民だった人達も神を祭っていたと思われます。 彼らは主に自然を崇拝し、日・月・星辰を崇め、秀麗な山に神が住むと信じました。 神奈備・磐座・神籬も、自然崇拝からきた神の拠りどころと考えられたからでした。 -------------------------------------------------------------------------- ●以下『神と女の古代』楠戸義昭著/毎日新聞社 より引用 古代 人は神とともにあった すべてのものに人は神の声を聞く 風に祈り 雨に感謝し 嵐におののいた 恵みと災いは紙一重 その意思は神にあると信じた 石にも神は宿り 木にも聖霊は棲む 小さな昆虫 地をはう蛇にも 神の摂理はあるとして敬う 人は自然に生かされていた その自然におのずと頭を下げ 天と地 または海 山 川 そこにあるすべてのものを祭った ―――――――――――――――――――――――――――――― 古代部族 G追 記 投稿日:2013年 7月 1日 ―――――――――――――――――――――――――――――― ところで、古代に朝鮮半島に住んでいた人々は、その後何処に行ったのでしょうか。 「百済」は「唐と新羅の連合軍」に滅ばされました。 「高句麗」は、統一新羅の時代に北方に逃れた一派が渤海国を建国したようです。 「旧・新羅」は、王族や貴族が一部の民を連れて日本に亡命したようです。 百済はご存知のように“白村江の戦”で日本軍と共に敗走しましたので、 百済の王族や貴族たちは、彼らもやはり日本に逃れたようです。 現代の朝鮮半島の住民は、朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)の遺民の子孫と、 統一新羅時代以降に、大陸から流入した人達の子孫で構成されていると思われます。 つまり、古代朝鮮半島の住民の多数が、 日本人の一部になっていると言っても間違いではないと思うのですが如何でしょうか。 ー古代部族@〜G 終りー ////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// 私の歴史観は、一般的な見方からするとズレがあるかも知れません。 確固たる論拠が無く、想像の含む割合が多いと言われそうだからです。 例えば歴代天皇の中でも有名な、雄略天皇や天智・天武・持統天皇らを渡来系と見るのは、一般的な歴史認識からすれば、首肯できないとする意見の方が遙かに多いと思われます。 また、列島土人については、私は所謂アイヌがそれだろうと思っています。 北方に逃れて行ったのがエミシ、南方に逃れて行ったのがクマソ・ハヤトなどと書きました。が、実はこれには迷いがあります。 エミシ、エゾと雖も更に古い時代にこの列島にたどり着き、定住していた人々かも知れないとも思うフシもあるからです。 当てられた漢字(蝦夷)から受ける印象も、何やら異邦人の臭いがします。 土蜘蛛と呼ばれた人々については、私はやはり彼らは古代の採鉱民のような気がしています。 古代の吉野三族にいう「有尾人」の井光、石押分之子らで、穴に起居していたのでしょう。彼らもいつか古い時代に渡り来た人達ではなかったのでしょうか。 それでは生粋の原住民はどうなったのかということになりますが、 それは、次から次へと渡来する侵入者に殆ど殺され、極少数になってしまったのではないでしょうか。 古代日本は部族間で多くの戦があり、ある時代までは原住民系、ある時は高句麗系、またある時は新羅系、百済系等々と、戦の度に支配者と支配者階級は交替していったと私は考えています。(古墳で発掘された副葬品などを見ても、大陸や半島の影響を濃厚に感じます)筆者:マルヤ |