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アマテラス考(1)
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投稿者:やさか
投稿日:2009/12/03(Thu) |
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恐れ多くも「アマテラス」と、神名を書きましたが、 言うまでもなく、この神は皇祖神といわれ伊勢神宮の主祭神でもあります。
でも、この御神名には多くの別名があります。普通には、 ●天照大神、あるいは天照大御神と表記されていますが、伊勢神宮においては、 ●天照皇大神、あるいは皇大御神と表記され、祭事で神名を唱えるときは、 ●天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)ともいわれているようです。
現在の学術文書では「アマテラス」と片仮名書きするのが一般的と思います。 『古事記』では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と表記されており、 『日本書紀』では、天照大神と表記されています。また別名では、 日神(ひのかみ)とあり、大日孁貴神(おおひるめのむち)と言うともあります。 そのほか、異名同神かどうかは定かではありませんが、 ●天照御魂神(尾張氏や畿内の豪族が祭祀)や、 ●天照国照彦火明命(『紀』第八の一書など)のほか、 ●天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 (あまてらすくにてらすひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと) と『先代旧事本紀』に記されたような随分長い神名もあります。
普通アマテラスさんは女神と思われていますが、はたして女神なのでしょうか? それとも男神なのでしょうか? また、本当にアマテラスさんは皇祖神なのでしょうか?
アマテラス考(2) |
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投稿者:やさか
投稿日:2009/12/05(Sat) |
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アマテラスさんは女神なのか男神なのかですが、あてられた漢字表記からみますと、
●天照大神(あまてらすおおかみ)……………女神、男神、いずれともとれる。
●大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)……女神との認識で字があてられている。
●天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)…男神としての神名。 …となってこれでは女神・男神いずれとも判断しかねます。
ところが古事記・日本書紀の記述からみますと、『記』で須佐之男命が高天原に天照大御神を訪ねる段では、 天照大御神が髪を解いてミズラに結うという記事があるので、これは男装をしたのだから女神と考えられます。 そしてこの時、須佐之男命のことを我が弟と言っているので自分は姉だったのでしょう。 一方『紀』では、素戔嗚尊が天に天照大神を訪ねた記述で、 天照大神が神衣を織るため機殿に居る記述があるので、ここでも女神と認識できます。 そして、『万葉集』巻2-167でも「天照日女之命」と表現されているので、大方の認識は女神だったと思われます。
さて、皇祖神のことですが、『日本書紀』巻第二の本文、初めの部分に、
「皇祖高皇産霊尊」とみえ、また神武天皇即位前記には「皇祖天照大神」とあります。 この『紀』の記述からは、 タカミムスビさん、アマテラスさん、両神共に皇祖神とされていたと考えられるのですが如何でしょう?
アマテラス考(3) |
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投稿者:やさか
投稿日:2009/12/07(Mon) |
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伊勢神宮(神宮司庁)では、天照大御神の伊勢御鎮座の年を垂仁天皇26年としています。 神武天皇元年を西暦紀元前660年として逆算しますと、垂仁26年は紀元前4年頃でしょうか。 二周干支120年を加えても西暦116年、2世紀の初め頃の大昔となります。 『書紀』神代の巻以降を見てみましょう。 ●雄略天皇元年3月、稚足姫の皇女が伊勢大神の祠に侍る ●継体天皇元年3月、荳角(ささげ)皇女が伊勢大神の祠に侍る…等と記されていますが、 ここでは、天照大神の神名ではなく、「伊勢大神※」となっています。 ―――――――――――――――――――――――― ※全現代語訳『日本書紀』宇治谷孟/講談社学術文庫では、 「この皇女は伊勢神宮の斎宮となられた」と書かれているが、 原文は、「是皇女侍伊勢大神」であり、正しい訳ではない。 これでは、意訳でもなく違訳である。 他でも原文に正しくない記述や私見があるので注意がいる。 ――――――――――――――――――――――――
『書紀』では、その後の記述でも「伊勢大神」という表現が続いて、 ●天武二年4月14日、「欲遣侍大来皇女于天照大神宮。而令居泊瀬斎宮。」と、 ここで初めて「天照大神宮」の名称が出て来ます。 大来皇女を天照大神宮に侍らせるため、泊瀬斎宮に居らさせた記事です。 ●天武十年5月11日、皇祖の御魂を祭ったとする記事がみえます。 (以下には筆者の私見と想像が入り込んでます…) ここで初めて皇祖神としての天照大神を伊勢の神宮にお祭りしたのではないでしょうか。 つまりこの時点以前は、この伊勢の地には「伊勢大神」という別の神格があったのではないかと。 天武~持統朝を経て、この国が「日本」と国号が定まる前、伊勢地方には別の勢力があって、 伊勢大神を奉祭していた。そして、そこの支配者はサルタヒコではなかったかと思うのです。 伊勢・志摩地方とサルタヒコの繋がりは非常に濃く感じられてならないからです。
さて、天照大神は女神か男神かの続きですが、これを斎宮の制度から考えてみたいと思います。 斎宮というのは、神に侍る側・祀る側であるということについては誰も異存はないと思います。 そして斎宮は神の妻でもあると思います。それから考えますと、祀られる対象の神は男神とする方が自然でしょう。 斎宮は、しばしば神主にもなったようです。勿論この場合でいう神主は神の依代の意味です。 託宣する神が男神であれば、巫(めかんなぎ)の方が神託を受けやすい(憑依されやすい)と思えます。 このことからも祭られる側の、天照大神は本来男神だったかも知れません。
また他に、まったく別の見方もあります。 それは、前記の素戔嗚尊が天に天照大神を訪ねた場面のことです。 天照大神が神衣を織るため機殿に居り、ここでは神に仕える側に立った記述がなされています。 このアマテラスが神宮に祭られている天照大神だとしましたら、それは女神といえるでしょう。 しかし、その場合、天界でアマテラスが仕えた神、アマテラスに祭られていた神とはどのような神だったのでしょう? アメノミナカヌシノカミ、アメノトコタチノカミ、カムムスビノカミでしょうか? それとも、タカミムスビノカミなのでしょうか? この場合、そうした疑問が残ります。
アマテラス考(4) |
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投稿者:やさか
投稿日:2009/12/09(Wed) |
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伊勢神宮崇敬会発行の、『お伊勢さんを歩こう』という小冊子に、 ――お伊勢さん、大神宮さん、と親しまれる伊勢の神宮は、ただ“神宮”というのが正式な称号です。 お伊勢さんは、天照大御神をお祭りする皇大神宮(内宮)と豊受大御神をお祭りする豊受大神宮(外宮)を御正宮として、 十四の別宮と百九の摂社、末社、所管社、合わせて百二十五の宮社から成り立っています。―― …と書かれています。このように神宮には多くの神々がお祭りされているようですが、内宮入口の案内表記では、 ―――――――――――― 皇大神宮(内宮) 御祭神 天照大御神 御鎮座 垂仁天皇二十六年 ―――――――――――― …と上記のように御祭神として天照大御神の御神名しか記されていません。 ところが、一般にはあまり知られてはおりませんが、『皇大神宮儀式帳』によれば、 内宮正殿には、アマテラスの相殿神として左に弓を置いてタチカラオ(天手力男命)、 右には剣を置いてヨロズハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師姫命)を祭るとあるようです。 伊勢の神宮では、合計百二十五の宮社で多くの神々がお祭りされていますが、宮中ではどうなのでしょう。
皇居におけます祭祀は、いわゆる宮中三殿といわれる賢所、皇霊殿、神殿、で行われているといわれます。 『延喜式』・「神名帳」に記載の宮中神三十六座のうち、その御巫祭神八座は次のような御神名になっています。 ●神産日神(かむむすびのかみ) ●高御産日神(たかみむすびのかみ) ●玉積産日神(たまるづめむすびのかみ) ●生産日神(いくむすびのかみ) ●足産日神(たるむすびのかみ) ●大宮売神(おおみやのめのかみ) ●御食津神(みけつのかみ) ●事代主神(ことしろぬしのかみ) 以上の八神ですが、ここにはタカミムスビの御神名はありますが、アマテラスの御神名はみあたりません。 座摩巫祭神五座に無く、御門巫祭神八坐に無く、生嶋巫祭神二座にも無く、 宮内省坐神三座の中にもその御名はありません。 大膳職坐神三座の中、葛木坐火雷神社の配祀の一柱として大日貴尊の御名が見出されるのみです。 更に、造酒司坐神六座に無く、主水司坐神一座でもありません。
天照大御神は、皇祖神であり神宮の主祭神であられるはずです。 その本宗の御祭神が、延喜式神名帳・宮中神の中に何故その御神名が無いのでしょう? 宮中では天照大御神は奉祭されていないのでしょうか。
神道に興味を持つ者の一人として素朴な疑問を持ったのですが、 ●宮内庁のホームページ「宮中祭祀」では―― 賢
所:皇祖天照大御神がまつられています。 皇霊殿:歴代天皇・皇族の御霊がまつられており,崩御・薨去の1年後に合祀されます。 神
殿:国中の神々がまつられています。 …と明記されています。http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi.html
アマテラス考(5) |
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投稿者:やさか
投稿日:2009/12/12(Sat) |
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天照大御神は皇祖神で、全国にあまた坐す神々の頂点、本宗の主祭神です。 この天照大御神が坐す伊勢の神宮は、いわば天皇家の宗廟ともいえると思います。 ところが、この極めて重要な祖神を祀る神宮に、明治二年の明治天皇参拝まで、 歴代天皇自らの参拝記録はないようです。『書紀』には、 「天武天皇元年6月26日朝、朝明郡の迹太川のほとりで天照大神を遥拝された」とありますが、参拝とは記されていない。 「持統六年3月6日、天皇は諫めに従われずついに伊勢に行幸された」とありますが、ここも参拝とは記されていません。 天武・持統、両天皇ですら参拝なされていないようなのです。
『書紀』天武・持統朝の記述の中、特に目を引くのは、 天武天皇の広瀬・竜田の神への奉幣の多さと、持統天皇の吉野宮への行幸の多さです。 吉野は距離が近いということはありますが、皇祖神の坐す伊勢の神宮へは、 一度も参拝した記述はないのとは対照的に、 広瀬大忌神と竜田風神へは、20回以上も祀らせたとする記録があります。 天皇自らの参拝はほとんど無かったようですが、天武・持統両天皇にとって、 この広瀬・竜田の神を丁重に祀ることはどのような意味を持っていたのでしょう。 また、天照大御神との係りはあったのでしょうか?
アマテラス考(6) |
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投稿者:やさか
投稿日:2009/12/13(Sun) |
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天皇家にゆかりの神には、アマテラス神やタカミムスビ神などの神々、そして 前文に挙げた広瀬・竜田の神のほかもうひとつ興味深い神名があります。 それは、前記『延喜式』・「神名帳」記載、宮中神三十六座の内の宮内省坐神三座、園神と韓神のことです。 園神は新羅系で大物主命。韓神二座は百済系で大己貴命・少彦名命だという説もあるようですが、 いずれも渡来系の神のようで、平安遷都以前から宮内省にまつられていたといいます。 平安時代の宮中神楽の演目のひとつに「韓神」というのがあって、その歌詞は以下のようです。 “三島木綿 肩にとりかけ われ韓神は 韓招ぎせむや 韓招ぎせむや” /宮中神楽歌(鍋島本家本)/
「カラオギセムヤ」は、原文では“加良乎支世牟也”となっており、 折口信夫は「枯荻」としたが、上田正昭氏は、『日本の神話を考える』のなかで、 「韓神のまつりには“韓招ぎ”こそふさわしい。その点では本居宣長説の“枯萩”という解釈よりも、 賀茂真淵の“韓優”とみた考えの方が妥当であった」としています。 このように宮内省坐神三座のなかに「韓神」が坐し、それが宮中神楽の演目にある。 …ということは韓神の降臨を願う神祭り(神降ろし)が、 宮中のいずれかの神前で執り行われていたのではないかと思わされます。
アマテラス考(7) |
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投稿者:やさか
投稿日:2009/12/14(Mon) |
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宮内省のHP[宮中祭祀]には、 「天皇皇后両陛下は,宮中の祭祀を大切に受け継がれ,常に国民の幸せを祈っておられ,年間約20件近くの祭儀が行われています。皇太子同妃両殿下をはじめ皇族方も宮中祭祀を大切になさっています」と書れています。 日々の拝礼などについては触れられていませんが、 賢所で四方を拝し、伊勢の方向を向かれ、天照大御神を遥拝しておられるのでしょうか。 天皇の最も大切な御役割は、国の彌栄(いやさか)と民の安寧を、日本国の祭司王として神にお祈りなされることだと認識いたします。
日本は今、国内には山積する問題を抱え、国際的にも孤立化の傾向にあり、 大きな曲がり角に来ていると誰もが感じていると思われます。 迷走する政治家と、事なかれ主義に堕落した官僚。 本来の使命を忘れたかに見える教育現場、低落する経済と雇用不安。 荒んだ世情を反映するかのような凶悪犯罪の増加等々。 先行き不安な兆候を挙げればきりがありません。 このような時代こそ、大和ごころの復活が求められると思います。 戦後の占領軍による統治政策で戦前の教育はすべて悪として否定され、 間違った個人主義と自由主義の横行で、日本人の美徳が地に落ちました。 この混迷する時こそ、日本人の心の支柱としての天皇のお力添えが、ぜひとも必要と考えるものです。
●以下に「やさか掲示板」[407]に掲出した一文を、過去ログより抽出して再掲します。 慎太郎の「天皇論」 投稿者:やさか 投稿日:2006/2/6
最近になって皇位継承問題が取りざたされているが、石原慎太郎は、皇位相続議論以前に日本の天皇とはいかなるものか考え直す必要があるとして、本日の産経新聞で次のように述べている。(以下部分抜粋、引用)
「私は天皇こそ、今日の世界に稀有となったプリースト・キング(聖職者王)だと思っている。人類の歴史の中に同じものを探せば、古代エジプトのファラオに例を見ようが、現今の世界には他に例がない。さらにいえば天皇は神道の最高の祭司にに他ならない…」といい、そして、 「日本の風土が培った独特の汎神論はその後伝来した、これまた他の一神教と異なり多様な聖性を許容する仏教と容易に混交融和して今日の日本人独特の、決して宗教的なものにとどまらぬ、いわば融通無碍な価値観とさらにそれに育まれた感性をもたらした…」と日本人の心を述べる。 続けて石原はいう。「それらの時代を通じて天皇に関わる事柄として日本人が一貫して継承してきたものは、神道が表象する日本という風土に培われた感性に他なるまい。そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。私が現代に改めて天皇、皇室に期待することは、日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ」と。 そして戦後の皇室の在りかたにふれ、その本質からずれているような気がしてならないと言い、例えて、 「何か災害が発生してような折、天皇が防災服を着て被災地に赴かれるなどということよりも、宮城内の拝殿に白装束でこもられ国民のために祈られることの方が、はるかに国民の心に繋がることになりはしまいか」と書いている。 さすがに石原らしい見事な天皇論だと思う。 ●産経新聞 2月6日朝刊 第1面/日本よ/のコラム
「祭司たる天皇」と題した記事より。
アマテラス考(8) |
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投稿者:やさか
投稿日:2009/12/15(Tue) |
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神宮の杜は、とりわけ森厳です。 特に早朝、宇治橋を渡り、参道を南に向かって進み、五十鈴川の御手洗場から緩やかに左折して、 東に向って内宮正宮の方へ進むと、屹立する杉の大樹の枝葉の合間から、神々しい陽光が差し込んでまいります。 正に日神(ひのかみ)を実感する瞬間です。
“何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる”
先哲が詠んだこの歌の通り、感慨で身魂がふるえる思いがいたします。 この神宮がここに御座あるかぎり 千三百年以上も引き継がれてきた祭祀が続くかぎり まだまだ日本は大丈夫という安心感に満たされます。 伊勢の神宮に限らず、日本各地の神社では八百万(やおよろず)の神様が 神職の方々によってお祭りされています。 もちろん、各地の寺院においても平和への祈りがなされていることでしょう。 日本はやはり “神の国” と思います。 こうした「神々の祭り」が、永久(とこしえ)に続けられるよう願わずにはいられません。
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